天使と悪魔のロマネスク｜リアクション

天使と悪魔のロマネスク

ナイトクラブ『Cocytus』（３）

　酒のせいか、背に負った黒い翼のためなのか。普段とはどこか違う、何だか妙な気分であることには、桜塚絵理奈も気付いてはいた。
「白魂石、ねえ……興味がないわけじゃないけど」
　実年齢と反し、彼女の外見はまるで小学生のようではあったが、ここは魔界だ。誰の目も気にせず酒を飲んでいられることにも、絵理奈の酩酊を深める効果はあったろう。
「でも、どうでも良くなってきちゃった。それより今は、飲んで楽しまないと！　ねっ♪」
「……はい」
　明るい絵理奈とは対照的に、バーカウンターの隣に腰を落ち着けている、葉利沢倫理子の表情は冴えない。
　そもそも、事情が良く飲み込めていないこともある。気付けば悪魔の姿で、こんな享楽的な場所に佇んでいた。
　暗い顔の彼女を見かねたのか、たまたま隣り合った絵理奈が声をかけてきて、何とはなしにこうして並び、カクテルを味わっている。
「さ、どんどん飲みましょ！　マスター、『XYZ』作ってくれない？　お隣の彼女の分もね」
　悪魔のバーテンが慣れた手さばきでシェイカーを振り、カウンターに並んだ二つのグラスへ、淡雪のように真っ白なカクテルが注がれる。
　楽しそうな絵理奈に手で促され、倫理子が口をつけてみると、
「あ……美味しい」
「でしょ？　ねえ、知ってる？　このお酒って意味深な名前だけど、色んな由来があるんだよね」
　にこやかに笑みを浮かべながら、そう尋ねる。倫理子が首を横に振ると、
「XYZはアルファベットの最後だから、『もう後が無い』、とか。『今夜はもうおしまい』、とかね。色々あるの。でもやっぱり、あたしが好きなのは……」
　自身もそれを味わい、絵理奈はこの上なく楽しそうに、言ってのけた。
「『これ以上に無い、最高のカクテル』！　それが正解だって思うのよね。うふふ♪」

　自分には、似合わない。倫理子はそう思う。
　そんな前向きな由来は、自分には、とても……と。
「もう、後が無い……これが、最後……」
　そうした意味のほうが、しっくりと来る気がする。
「……そう。そうよ。汚れた天使なんて、私には似合わない。きっと、悪魔お似合いよ。でも少し、ベタすぎるかしら？　フフ……」
　自嘲に満ちた倫理子のつぶやきや、彼女の纏うどこか退廃的な空気は、好色な悪魔たちの興味を誘ったらしい。いくつもの手がするりと伸びてきて、倫理子の髪をさらりと撫で、白い肌をなぞり、甘いマスクが口々に、飾り立てた口説き文句を垂れ流し始めた。
（いいわ。どうせ、私はもう……どこまでも、どこまでも、堕ちるところまで……堕ち切ってやる）
　この夜に味わう快楽が、自分の中の何かを、決定的に壊してしまおうとも。

「ん～。ダメだったかぁ」
　悪魔たちとともに、クラブの奥の個室へ誘われ消えていく倫理子の背を見送り、絵理奈は『XYZ』を飲み干した。
　暗い表情の彼女の心を少しでも引っ張り上げることができれば、とお節介な講釈など述べてはみたものの、あまり効果は無かったようだ。
　とはいえ、それも気まぐれ。今の彼女は、悪魔なのだ。
「……ま、いっか♪」
　何しろ、こんな機会はめったに無い。人目はばからずに好きなだけ痛飲できるだなんて、こんな素敵な日はきっと、そうは訪れまい。
「さあ、今日はパーッと、飲み明かすぞ～！」
　紛れも無く今日は、彼女にとって、これ以上に無い最高の一日となったことだろう。