滅びの呪文の夢現｜リアクション

滅びの呪文の夢現

　潮風が頬に触れては体温を奪って去る。
(今日も寒いな)
　陶器のように白い頬を僅かな紅で彩りながら、桜月はブーツの底に砂を踏む。常とする夜の散歩、何ら急ぐことはない。

　空を仰げば、街の光に薄く染まった濃紺の夜空に月が浮かび星が瞬いている。
(綺麗だ)
　白銀の月に微笑む。手が届きそうだと感じるのは、
(冷たく澄んだ空気が殊更綺麗に見せてくれるからかな)
　鮮やかに紅い、色素の極めて薄い瞳を月の光に細める。潮騒と共に押し寄せる夜風に惑う白銀の髪を片手に抑える。
　ふと、夜空が翳った。
　背後に在って足元を照らし出していた街灯の光が唐突に消えて、咄嗟に振り返れば、つい先までは煌々と夜を照らし出していた街の明かりが全て消えている。
(……大規模停電か？)
　スマートフォンを取り出す。ただの停電であれば、インターネットで停電に関する情報が拾えるはず。
　そう判断してスマホの電源ボタンに触れるも、不思議なことに画面が点かない。
(神魂の影響か？)
　何度試しても電源が落ちたままのスマホを仕舞う。
(長引かなければいいけれども)
　小さな溜息まじりに再び空を見上げて、
「……ああ」
　思わず息を飲む。
　夜空を明々と照らし星々の幽けき光を呑み込んでいた街の灯が消えて、夜空は逆に光を増していた。星屑すらも現れた夜闇はまるで渦巻く光の海。
　天を満たす星々の海映す紅の瞳に空行く巨大なナニカを捉えて、月は目を瞠る。
「これは……」
　それは、フツウであれば有り得ない事象。
　何年かに一度はテレビで放映されるアニメに見るその通りの、――『大空の町ニャルタ』。
「ニャルタは本当にあったんだ、とか言えばいいのかな？」
　気付いた時のまま、空に浮かぶ町をその瞳に映して呆然とするまま、思わず呟く。
　月と星を背景に、圧倒的な存在感で以って空に浮き上がる不思議の町。見る限り、幻のようには見えない。空に浮かぶ月ほど遥かに遠くもない。空を翔けることが出来たならば、あの街に立つことがきっとできる。
(行きたい)
　胸に湧き上がる気持ちを止められず、けれど月は空へと舞い上がる手段を持たない。
　胸の願望が落胆に取って代わられる。
　落胆は諦念のかたちをしていて、それでも諦めきれずに、月はもがくように星に占められた空へと手を伸ばす。
　あの町に行きたかった。
　空を飛ぶ翼が、
「……欲しい」
　叶わないと知っている願いを口にすれば胸が冷えた。胸と同じに凍る唇を引き結ぶ。奥歯を噛むように息を零し視線を落として、いつの間にか隣に立つ『影』の存在に気が付いた。
　鏡映しのように、己と同じ格好をした『影』。
　己が身に宿ったろっこんが、己の意志と混ざり合いかたちを成した、己の影を素とするナニカ。
　本来は己が『出ろ』と強く念ずることで立体化する影の存在に、月はちらりと首を傾げる。念じたつもりはなかったけれど、意識の外で強く強く、願ってしまったのだろうか。
「もしかして私を空に連れて行ってくれるのかい？」
　問えば、影か小さく頷いて答えてくれた気がした。
　己の意志で操作できるものであると知っていながら、月はそれでも嬉しくなる。空に伸ばしていた手を下ろす。同じように腕を下ろす影の指に指を伸ばし、緩く絡める。
　影とふたり、ただ黙って届かぬ空を眺める。

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