あの日の約束｜リアクション

あの日の約束

　黒いジャケット姿で日暮ねむるは九夜山へと足を運んだ。手には小ぶりのビニール袋を提げている。中には牛乳パックと缶コーヒーが身を寄せ合うようにして入っていた。
　ねむるはロープウェイの始発駅を前にして立ち止まった。脇には登山道が見える。
「悩む必要もないね」
　即断で登山道を選んだ。歩きながらジャケットのポケットから一枚の写真を取り出す。キジトラ模様の猫が躍動的に写っていた。ねむるは儚げに笑って、ノラ、と弱々しい声で呼び掛けた。
　それ以上、語り掛けることはなかった。ねむるは山を登り始めた。
　手に提げたビニール袋が枯葉を踏むような音を立てた。砂利の多い箇所では乾いた音が付いて回る。木の根で形成された歪な階段は足腰に負担を掛けて自然と息を荒くした。それらの音に囲まれて、ねむるは歩を進める。
　足が突然に止まった。目は山肌に沿って回る道の先に向けられた。常緑樹の葉が緩やかな風に揺れている。
「ノラなのか？」
　ねむるは九年前に山中で出会った猫のことを思い出す。キジトラ模様で目は翡翠色をしていた。
　揺れる葉の色はどこか翡翠に似ている。誘いに乗るかのようにねむるは走り出した。
　木々の陰影を潜り、滑りながら曲がった。荒い息で笑顔を作る。
「ノラは速いな。でも、僕だって」
　大きく曲がる道を難なく駆け抜ける。開けた前方に向かって更に加速した。
　展望台のある頂上にねむるは頭から突っ込んだ。身体に休む間を与えず、足を動かす。
「ノラ、いるんだろ？　追いかけっこの次はかくれんぼかい？」
　迷子の表情でねむるは探して回る。周囲の繁みを覗いて九夜食堂に辿り着く。軒下には花瓶が置かれ、萎れた花が挿してあった。
「……そうだよね。ノラは、もう、いないんだよね」
　ねむるは頭を掻きながら花瓶の前にしゃがんだ。ビニール袋から牛乳パックを取り出して供える。手を合わせることはなかった。久しぶりに再会した旧友に見せるような笑みで語り掛けた。
「九年前はありがとう。ノラがいなかったら、僕は九夜山で迷子のまま、どうなっていたかわからないよ」
　鼻先を指で掻いた。恥ずかしそうな笑みを浮かべて話を続ける。
「僕の一方的な約束なんだけどさ。九年前の今日、来れなくてごめん。いつもここからノラと夕陽を眺めていたのに。あの時は家の手伝いが忙しくて、ホントにごめんな」
　合わせそうになった手をジャケットのポケットに突っ込んだ。速やかに立ち上がって近くのベンチに深く腰を下ろした。
　薄青い空の端に夕陽が見える。
「あの時の空みたいだねぇ」
　持ってきた缶コーヒーを飲んだ。青い水彩の空に滲む緋色を漫然と眺める。少し目が潤んでいた。
「僕はわかっているんだ。手をね、合わせないと。ちゃんとサヨナラをしないと、ダメなんだ。わかっているんだよ、ノラ」
　一気に缶を傾けて横に置いた。足元から鳴き声が聞こえてきた。
　猫と認識した時には涙が溢れていた。心配するかのように鳴き声は大きくなる。猫は脛の辺りに身体を寄せてきた。
「ノラ、僕は、絶対に、忘れない。忘れないけど」
　ねむるは顔の前で手を合わせて項垂れた。無声映画のように声はなく、頬を涙で濡らした。
　夜の気配が訪れる前にねむるは顔を上げた。両手で顔を擦って立ち上がる。
「泣けるもんだねぇ」
　口角を指で押し上げて笑顔を作る。何度か試していると自然な笑みが定着した。
　ねむるは歩き出す。
「……ありがとう、バイバイ」
　振り返らず、前を向いて最後の言葉を伝えた。