●テスト４日目：数学、体育


　朝が来て、寝子島住人は息を呑んだ。
　夕べ積もった雪が街を銀色に染め変えている。
　天候は晴れ。久々のいい天気だ。
　四日間の日程で行われている期末試験もいよいよ最終日である。

　最終日の試験は数学と体育の二科目だ。
　数学が最後にして最大の山という者も多いのだろう。
　校庭に積もった雪にはしゃぐ校長先生の声が聞こえても、気を留める生徒はほとんどいない。
　なにもない最終日かと思いきや、『イライラエアー』が吹いたせいで、生徒たちは貧乏ゆすりをしたり、爪を噛んだりと、苛々した素振りを見せはじめた。
　数学の時間、葉利沢 倫理子にもイライラが襲い掛かってきた。
（ここ数日間の期末テストはロクなものじゃなかった。そのせいなの？　思考がまるでまとまらないわ）
　病気がちで神経質、それが周囲から見た彼女の評価。
　少なくとも彼女の過去を知る者は今のところいない。
　過去……――いや、そんな単語を考えてはいけなかった。
　一瞬、忌まわしい記憶がフラッシュバックしそうになる。
　この時期はよくない。匣にしまい込んで堅く封をしておかなければならない記憶が、ふとした瞬間に蘇りやすい季節だ。……自宅へ帰ったら医師に処方してもらった睡眠導入剤で夢なんか見ない眠りにつこう。
　冷たい唾液を飲み込み、倫理子は目の前の数式に集中する。
（これは……この数字をここへ代入して……この数字を処理すれば……）
　もともと数学は得意だ。
　数字や数式のもつ簡潔さが好きだ。
　数学というと徹頭徹尾に論理的な思考を求められる。
　そこには感情の入り込む余地はない。それ故に冷たげな印象を持たれがちな科目だと思う。
　あるいは余りにも静的にすぎて退屈。無味乾燥。意味不明。言われてみればそうかもしれない。
（けれど、私は好き）
　それまで見えなかったものが唐突に、一本の線で結ばれて、シンプルな数式で表現できるという事実。
　美しい。
　惹かれるほどに。
　それに……それにのめり込んでいるうちは少なくとも辛いことを忘れられる。

　呼吸が落ち着いてゆくのを感じる。解き終えてしまう。ううん、まだ終わらないで。
　そんな気持ちでひたすら回答の見直しをする。
　少しでも数式の世界で遊んでいたくて。

◇

「終わったああああ！！！」
　数学に続いて、体育の試験も終えて、生徒たちは解放感に酔いしれた。
　教室に戻って、ホームルームが終われば、この辛い四日間と別れを告げることができるのだ！

　我らがらっかみ、野々 ののこのいる１年５組は、他のクラスと同じように、晴れやかな顔をした生徒たちでいっぱいで、試験結果や打ち上げの話でもちきりだった。
　佐藤 英二はそんな『みんな』の中に混じるひとり。
　正直、理数系は散々だったが、暗黙の了解でお互い気にしないことに決めて、クラスメイト達と談笑する。内心、補習が心配だったりもするが、そんなこと終わった直後から気にしたってしょうがない。結果が出て真っ赤だったら、そのときはそのときだ。
　とそこに、ののこが「きーん！」と声を上げて突っ込んできた。
「くらーっしゅ！」
「どわー！」
　ののこによって、一瞬散り散りにされるクラスメイトたち。
　だが、すぐに立ち直ると、ののこを含めて笑い出す。
「試験終わったねー。ああもうほんっとお腹空いた！」
「わかります野々さん。私もです」
　巫部 紫苑が微笑み返す。
「いやー、紫苑ちゃんほどは食べないけども。紫苑ちゃんの十分の一くらいお腹空いたっ！」
　紫苑は大食クイーンである。祭りがあると出かけていき、屋台全制覇とかしているので、さすがにののこもその大喰いについては知っているようだ。
「テストも終わったことだしみんなで遊びに行こうよ。とりあえずカラオケ行かない？」
　と英二が言った。
　いいね、と何人かから声が上がり、中でもののこは一際大きく手を挙げた。
「いきたーい！」
　歌える歌があるかわからないが、とにかく声を出して発散したい。その気持ちはののこもみんなと同じなのだろう。英二も含めて数人が同意すると、ちょうどののこのお腹がぐうっと鳴った。
「うー、歌う前に何か食べたいな」
「ははは、そうみたいだね。まずお昼にしようか。巫部さんもどう？」
　英二に誘われた紫苑は、あら、と微笑んだ。
「カラオケはちょっと……ですけど、折角ですからお昼だけご一緒しますね」

◇

「はー、終わったー」
　教室を出た桜庭 円は、急ぎ足で昇降口へと向かう。
　試験は上手くできたか微妙。
「けど、勉強は結局、準備だし。試験でいい点を取るより、復習して身につけることが大事だよね。にしても、事件とかと、学業の両立は難しいなぁ」
　次頑張ろう！　と円はきゅっと拳を握る。
　それにしてもだ。
「そろそろ将来の目標とか決めなきゃかなぁ？」
　高校に入ったばかりの頃は、今を楽しむのに精いっぱいで、将来のこととかあまり考えてなかった気がする。そりゃあもちろん今も、「今を楽しむこと」は精いっぱいやりたいけど、その「今」の連なりの先に何が待っているのか、気になるお年頃になったというのも事実だ。
「ぼくは何が向いてたり、何になりたいんだろう？」
　同じ方向へ向かう人波の中、立ち止まって自問してみる。
「女子ボクシング！　警察官もいいなぁー！　いやいや、執筆や編集とかもやってみたい！　寝子島書房の記者とか楽しそうだし……自分で本も書いてみたいなぁ。詩も結構好きだからなぁ」
　どーしようかなーと、考えて、円は天井を仰ぎ見た。
「んー、やっぱり、夢が固まってないのは自分の悪い所だなぁ」
　下駄箱で靴を履きかえ、とんとん、とつま先で地面を叩いて履き具合を調整する。
　と、そこで円はきょろきょろと飼い猫のにゃーくんを探した。
「あっもしかして！」
　校庭へ向かう。にゃーくんは、校長先生や、校長先生の飼い猫たちと、雪遊びに興じていた。
「おーい、にゃーくん終わったよー。お友達と遊べて楽しかったかな？　校長せんせーもお疲れ様です！」
　猫と遊んで雪だるまのようになった雨宮 草太郎校長は、ぶるぶると身体を振るわせて雪を払うと、好々爺とした笑顔を見せた。
「チャオ♪　君たちこそお疲れさまだったね。ほっほっほ！」
「ふっふっふ。頑張りました。結果はわからないけども。ところで猫ちゃんたち大きくなりましたねー」
　円はユキ、こしあん、イーピンの三匹を順に撫でる。
「そろそろ、にゃーくんも悟ったような顔になってくるんだろうか。複雑！」
「そうかい？　私は嬉しいよ。猫も君たちも、すくすくと成長する姿を見るのはね」

　そのとき、校舎の方からおーい！　と手を振って、ののこや英二、紫苑の一団が駆けてきた。
「校長センセー！　遊んでてずるーい！」
「ほっほっほ。君たちもこれからたくさん遊べるだろう？　クリスマスやらお正月やら」
　それを聞き、ののこは振り返る。
「英二君はクリスマス遊ぶの？」
「学校のクリスマスパーティーにはバイト前に少しだけ顔出すと思うけど、基本的にクリスマスはずっとバイトだよ」
　バイト。なんて高校生らしい響き！　ののこはびしっと手を挙げて、校長先生に訴える。
「せんせー！　ここに働く人もいます！」
「ほっほっほ。働くのも青春かな」
　校長先生は豊かなお腹を揺らして笑うばかりだ。
　円はののこに近寄って尋ねた。
「ののこちゃん試験できたー？」
「それは聞かないお約束だよ！」
「だめっぽそうかー。でも、逆境を楽しんでるね。そのメンタルならそれは、それでいい事なんだろうなぁ。そこは見習わなきゃ！」
「いやいや、妙な感心するなって」
　英二はいちおう突っ込んで、それから円も誘うことにした。
「桜庭さんも一緒に行かない？　お昼食べてカラオケ」
「いいねー。じゃ、校長センセーまたねー」

　賑やかな一団は去って行った。
　校長先生は仔猫を抱き上げながら、長いこと「ほっほっほ」と笑っていた。