授業風景～倫理の時間の場合～｜リアクション

授業風景～倫理の時間の場合～

＜十文字若菜の場合＞
　十文字は今までの発表に「こういう考えもあるんだ」と、各々の思想を吸収するように聞き入っていた。
（そ、そろそろ、私の番だよね……）
　自分の発表の出番が近付くにつれ、心拍数が上昇していく。
「それでは、次は十文字さんの発表です。お願いします！」
　中野先生に声を掛けられ、ビクッと跳ね上がるように席を立つ十文字。
（き、来た……！　どうしよう、ドキドキしすぎて心臓の音しか聞こえないよ……）
　不安、緊張、そして……恐怖。
　様々な感情が彼女の頭の中で渦巻く。
「え、えっと、私の人を殺してはいけない理由……」
　狼狽しながら、必死にまとめた考えを口から紡ぐ。
「……それ以前に、私には誰かを殺す事が出来ない。だって怖い。誰かを殺すなんて考えるだけで怖い。人の命を背負う覚悟、人を殺したという罪悪感を背負い続ける覚悟なんて、私にはとても出来ない……」
　十文字の身体は、次第に瘧（おこり）のように間欠的な震えに見舞われた。
　彼女は思い出していた。
　先日、自身に降り掛かった『恐怖』。
　フツウの裏側で起こっている未だ終わらない闘争。
　その時に殴られた後頭部は未だ治療中で、その時の恐怖が蘇るたびに疼く。
（大丈夫、大丈夫……。私は、ここにいる！　あの時、誘拐されて傷付いた皆も無事だよ……！）
　自分に言い聞かせるべく、心の中で十文字は叫んだ。
（ほら、ここに何人もいるでしょう？　皆、生きて帰ってこれたんだよ……！）
　奇しくも、先日の（公式発表では）『事故』（と扱われている『事件』）で一緒だった生徒が半数弱もいた。
　彼ら１人１人の顔を見て、彼女は平静を取り戻していく。
「……十文字さん？　あなたも顔色が悪いようですが、大丈夫ですか？」
　中野先生が心配して顔を覗き込む。
　十文字は努めて笑顔を作った。
「……大丈夫です。色々考えてたら、怖くなっちゃいました……」
　まだ体の震えは止まらない。
　恐怖が体を支配しているのを彼女は体感している。
「は、話が脱線しちゃったね？　ひ、人を殺してはいけない理由、それは、えっと……」
　十文字は一度、深呼吸を行った。
　そしてゆっくりと話し始めた。
「やっぱり、泣く人がいるからかな」
　力なく笑って彼女は繕った。
「その人を大切に思っている人がいて、その人が悲しむからかな。誰にだって大切な人がいて、その人が殺されたら殺した人を恨む、憎む。下手したら復讐で、その犯人を殺したくなるかもしれない。そうしてまた同じ事が繰り返され続ける可能性がある。それって……」
　彼女は息を呑んだあと、俯きながら呟いた。
「……怖いな。大切だからこそ、繰り返され続けるのは怖い。そして、悲しい」
　そこで十文字は半紙を掲げた。
「私の中の人を殺してはいらない理由。書道にして纏めるのは難しいけど、これでいいのかは迷うけれど、要は【怖いから】なんだよね……」
　教室内が、一瞬、あの日の光景と重なる。
　その恐怖を、まだ彼女は飼いならす術を持っていない。
　だから体が震える。怖いと言葉を漏らす。
「うん、怖いよ。殺すのも、殺されるのも。私は、正直にそれを言葉にするよ……」
　十文字の言葉に、中野先生は言った。
「己の恐怖を自覚して観察することは、仏教ではとても大事な修行の１つです。世の中には様々な恐怖の原因が溢れています。ですが、そういった恐怖は必ず自分の心から生まれるのです。ですから、いつでも自分の心を自分で観察して、恐怖を滅して、自身の心を強くしていくのです。これを仏教では『無畏』と言います」
「無畏……」
　十文字は、その言葉を深く記憶と心に刻み込んだ。
「先生、私も無畏で心を強くできますか？」
　彼女の問いに、中野先生はにこりと微笑んだ。
「仏様の教えを守って、自ら心を修めれば、いずれ無畏を得られるでしょう」
　そう言って中野先生は合掌してお辞儀をした。
　十文字も同じくお辞儀をした。