声のない世界で｜リアクション

声のない世界で

◆
放課後。
音楽室の前を通りがかった乃木成美は、漏れてくるピアノの音と歌声を聞いた。
聞き覚えのある、綺麗な声。この声は確か、あの時の……。
音楽室を覗いた、その直後のことだ。
歌声が、唐突に途切れた。
歌うのをやめたのではなく、歌声だけが突然どこかへ置き去りにされてしまったように。
一拍遅れて、ピアノの音が止む。
ピアノを弾いていた女の子がうろたえているのが、後ろから見てもよくわかった。
どうしたの、大丈夫？　そうかけようとした声が聞こえなくて、自分も声が出ないのだと気付く。
少しだけ考えて、成美は女の子の肩をそっと叩くことにした。
反射的に振り返ったその子の顔は、ひどく動揺しているのが見て取れた。
できるだけ穏やかな笑みを浮かべ、黒板を指さす。
一本チョークを手にとって、
【僕は乃木成美、のぎしげよし。古臭い名前だって、よく言われるよ】

◆
仲村渠鳴は、成美にならって震える手でチョークを取った。
【私は仲村渠鳴　なかんだかりなる】
【鳴さん、か。鳴さんは歌上手だね　さっき廊下から聞かせてもらったよ】
【ありがとう。ねえ、あなたも声が出ないの？】
【いまのところそうみたいだね、いつまで続くかわからないけど……】
びくり、と鳴の肩が震えた。
声が出ない。
声がでなければ、歌えない。
声を取り上げられることは、歌を取り上げられるようなもの。
どうしてこんなことが、と。そんな想いが胸をいっぱいにする。
いっそ夢だったらいいのに。
気付いた時には、震えのおさまらない手で黒板に文字を書いていた。
【声が出ないと困る、歌えない】
【私から歌を取ったら何も残らなくなっちゃう】
手の震えのせいでよれた筆跡は、今にも泣きだしてしまいそうな風だった。
初対面の人に弱音を吐くなんて、まるでらしくない。
でも、そうでもしないと不安で潰れてしまいそうだった。
もっと――聴く人の心まで届くような歌を歌いたい、と。そう思っていたのに。
……神様は、声まで奪ってしまうつもりなのだろうか。

そんな風に嘆く鳴の姿に、成美は一抹の悲しさを覚えた。
歌がなくなったら何も残らない――そんなこと、言わないで。
チョークを握りしめ。
【大丈夫。確かに音は聞こえないけど、きっと歌はここで感じれる。鳴さんの思いはここに届くから】
黒板にそう記しながら自分の胸をとんとん叩いた。
ここに――心に、響く。それを伝えたくて。
赤い瞳が、驚いたように見開かれる。
震えが少しおさまった手で、黒板に。
【声が出なくても……歌えるかな？】
成美はそれに、力強くはっきりと頷いてみせた。
【聞かせてよもう一度　僕に向かって、全力で！】

その言葉には、不思議な説得力があって。
背中を押されるようにして、再びピアノへと向かった。
とにかく歌ってみよう。
声がでなくても、目の前の彼の心へ届くように。

鳴の声なき歌を、成美はじっと静かに聴いていた。
例え声は聞こえなくても、きっと自分の心に届く。
声なき歌にこめられた心を、拾ってみせる。

ピアノの伴奏まで終わって、鳴は一礼。
一人分の拍手と笑顔が、彼女を迎えた。
心に届いたかは分からないけど、少し気持ちが楽になった。
いい歌だったよ、と。
黒板に書いた言葉を面と向かって示す彼に、
（……ありがとう、成美）
声にならない声で小さく呟いた。
ふと、黒板に今まで書いた会話が目に入る。
弱気になっていたことが思い出されて恥ずかしくなり、慌てて全部消した。
最後に一言、
【良ければ今度、また聞かせてくれるかな】
成美が書き足した言葉には、小さく頷いて。

その後成美の誘いで一緒に帰った２人が、同じアパートに住んでいることを知って驚くのはまた別の話。