慎ましくも誠実な父の心、花の顔と謳われた母の美貌を継いだ僕の姉妹たちは贔屓目を除いたって愛らしかった。誰もが褒めそやし、或いは妬んだ。
彼女たちには彼女たちの努力がある。姉がかつて僕を身代わりにした日々は、控えめで目に見える助けを寄越せない父と誇り高く救いの手を必要としてこなかったが故に助けを寄越さない母の間で苦しんだから。
花が花であることを誇る為、姉と、姉を見て育った妹2人が磨いたものを知るからこそ、憎く思うことなど何もない。
けれど、1人性別を違えた僕はある時を境に煩悶することになる。
両親からの愛情、周囲の人からの意識、気が付けば全て姉妹たちのもの。
僕は品を保って育てられはしたけれど、華があるとは言い難かった。
元々、大概の人は僕に無関心であるのは当然だ。
そして、興味関心を示せば好きになるかもしれないのと同じくらいの振れ幅で嫌われる可能性も生じる。
どうすればいい?
人は独りでは生きていけない。嫌われて敵が増えることもやがては死に繋がって行く。
生きていけない、息をしていけない、狭い、暗い、死と闇を恐れる人間くさい本能。這い上がる為の手は。
…身に着けたのは、僕なりに愛でられる方法。間違えてみせることも恥じらってみせるのも今やお手の物。
縋る言葉を出す必要もないくらい、上手になった。
でもそれは、僕の素直な気持ちじゃなくて。だから、相手の素直な気持ちでもなくて。
少しずつ信じられなくなっていく。自分も、僕の罠に掛かって僕を好いた人達も。
あな恐ろしや、本当は花開いてなどいない空虚な自分。
ただひとつ昔から褒められたこの瞳の色。金木犀の花の色。
その花の香りを身に纏えば花として少しは凛と在れたと思ったのに。今やこの蜜色に神魂が宿ってしまった。
だからもう信じない。僕という僕ただ一つの駒は、押し黙って、目を閉じて未来に踏み出していく。
僕が僕であることを愛されたい。必要とされたい。孤独は寒さに似る。花が凍え死なない為の道は。
未だ、分からない。
~♪~♪~♪
突如鳴った携帯の着信音に眉を顰める。特徴的な音。大正琴で奏でられた古き歌、故郷を歌う曲。
誰のものでもなく、自分が幼少の頃、姉に代わって奏でたそれ。
何度変えても『彼女』からの着信ではそれが鳴る様に『彼女』自身の手でされたので諦めこそしたが、快い物ではない。
まして、5コール以内に出なければ音程を違えた部分を聞いてしまうとなれば尚の事性質が悪いというもので。
「…そもそも何で音楽データがちゃんとあるのさ」
低くぼやくも肝心の音程ミスの直前で通話ボタンを押す。そっと耳に宛がうも零したのは溜息から。
本日もきっと可愛くない内容を口にするであろう『彼女』に向けて第一声。
「…今日は何、彩羽」
「嫌やわ、遊琳兄さん。また溜息から話す」
「お前が楽しい話を持って来た事が今の今まで一度でもあったか」
3つ下の妹、彩羽ほど遊琳にとって扱い難い人物は居ない。
(やり返しこそ出来ないものの成りすましていた所為で思考の読めている姉と、そもそも扱うなんて次元ではない両親が居れば勝てるのは雛乃だけになるのだが)
初めて出来た妹への接し方に戸惑って幼少期に関係性作りを失敗した事に始まり(実は琴花も遊琳に対して失敗して今があるのだが遊琳は知る由も無い)、彩羽が琴花に懐いて彼女と一緒になって遊琳を苛め始めた所為で不仲なのだ。
悪戯というより嫌がらせ。彩羽にとって顔色の変わり易い遊琳を眺めるのが、趣味である染め物より好きな事なのである。
「今年の夏休み、帰って来はりますやろな。うちら以上に待ってはりますえ、」
「話がそれだけなら切るよ」
「義姉さん、」
ぷつっ。
何せ血縁者の中でも近しいので着信拒否には出来ないが(後が面倒なので)無理矢理話を切った。
「何が義姉さんか。まだ正式に決まってないってのに」
店を継ぐ事自体には頷いて来た自分。両親の様にと勧められた見合い。
その相手リストの中に、一応は辛うじて幼馴染と呼べる少女の名も入っていたことなど言われずとも分かっている。
『今日はどっち?』
習い事で会う度真綿で触れるように訊ねてきた声。
夏休み、彩羽に言われた通り、京都駅からそう遠くない生家へ帰ろうとすればきっと生家よりも手前にある彼女の家の前も通るのだろう。
「っ………」
帰れないと思った。ただ帰らないというだけの選択肢は許されてなどいないのに。
彩羽は意地悪だ。けれど、告げる意地悪は、酷でもいずれ当たる現実に他ならないのも事実だった。
遊琳の父の名は京祐(きょうすけ)という。
母・杏理と同い年だが口数が少なく、とてもおっとりしていて影が薄い。
遊琳は父が苦手だ。姉に苛められ抗えずに泣きじゃくった時、母は冷たく薄く笑うだけで決して自分を助けない。
(杏理が助けなかったのは自分もまた幼少の頃同じ様な境遇を1人で撥ね退けて生きてきたからだと知ったのはもっとずっと後の事である)
母の笑みが恐ろしくて父の傍へ逃げ込んでもただ黙って和菓子作りに精を出す父親は、幼少の遊琳が求めた何かを満たしてくれる存在では無く。
母の言うことに怯える節は無くても首を横に振る事が殆ど無いことは遊琳に彼を少なからず恨ませるには十分で。
例えるなら纏足。
遊琳はいつしか自分をそう評するまでに歪んだ。
そして中学を卒業した時とうとう京の都から逃げ出したのである。
思い出されるのは母、姉、妹2人の笑み。4人全て違う笑みだけれど、全て遊琳には化け物の様に思えて。
末の妹の無邪気ささえ悪鬼に見えていたのだから精神はとうに限界に来ていた。
しかし高校1年生の夏休み。遊琳はまた京都の地を踏みしめていた。
長期休暇。家族全員(もしくは姉のみ)で押し掛けられたいか、それとも大人しく帰って顔を見せるかと言われ、挙句お盆の墓参りを言い出されれば厳しく季節感覚や礼儀を教え込まれた身では…何より安寧の地を踏み荒らされたくない遊琳にとって選べる選択肢など一つしか無かったのだ。
「……」
離れたのは一年足らず。それでも思い出そうとしても思い出せないほどだった父の顔は見ると何故か記憶通りだと思わせてくれた。
すぐに自分に引っ付きたがる雛乃が探す声に身を竦ませると父が徐に口を開いた。
「こちらへおいで」
滅多に聞くことのない柔らかな声に驚く。遊琳の返答無しにそっと―お姫様に触れる騎士の様な優しさで―手を引かれ、妹たちの居る店側ではなく家の縁側の方に連れ出される。
訳も分からず突っ立っていると縁側へ腰掛けるよう促され、従った時彼は奥から小皿と黒文字を持って来た。その上には…。
「…蕨餅」
「そう。誕生日おめでとう、遊琳」
丸くて、中に餡の入った蕨餅。小さい頃、泣きじゃくる僕の傍で父さんが作っていたもの。
蕨…花言葉は不変の愛。そして、父さんの、弥逢家の家紋は蕨桜。
今も遊琳は父が苦手である。けれど、今はもう、何一つ分からないわけではなかった。
弥逢遊琳には姉妹が居る。
19になる姉・琴花(ことか)、13と12の妹は彩羽(あやは)と雛乃(ひなの)。
歳が離れた影響か母・杏理(あんり)に一番似ているのが姉。その姉が遊琳を苛め、正しい愛情は数年後彩羽に向かう。
更に1年後生まれた雛乃は彩羽をまず第1の姉として考えた為琴花似の彩羽にくっつき回って真似事をするゆえの行為はあっても遊琳にとって姉第3号の割には可愛い妹であった。
『遊琳お兄さまへ』
そんな雛乃が書く、決まってこんな風に始まる手紙。
年賀状の宛名書きにはきちんと「様」と書くのにそれ以外を見ればこうだ。
内容など他愛も無い毎日の報告書。琴花よりも背の低い遊琳の膝に載せても小さいと思える小柄な妹の目から見た世界の話。
節々に兄が居ないことへの淋しさが綴ってあるのがいじらしくて帰りもしないまま目元を和ませるのは許してほしい。
彼女が纏う練り香水と同じ、桃の香りが滲みつけてある葉書。初めに教えたのは自分。確かに懐かしい。
『あと1年と少しになりました。また遊琳お兄さまと暮らせる日が雛は楽しみです。お体に気を付けて、お早うお帰り下さいまし』
タイムリミットを知らせる部分の数字が少しずつ小さくなる以外はいつもと同じ結び文句が書かれた最後の段にまで目を落とす。
青い月明かりが分厚い綿雲の隙間から無遠慮に幾筋も差し込んだベランダに流れる、明日はまた雨だと知らせる様な湿気含みの風を髪に飾ったアザレアの簪で感じ、「面倒」なんて頭に思い浮かべる方が余程手間な文字列を無言の言い訳にして身に纏ったままの翡翠色に紫蘭の花を描いた振袖の袷に無遠慮に葉書を差し入れた所で今まで手紙を支えていた手が小刻みに震えているのに今更気づいた。
右手を見ればその震えにも振り落されることなくダブグレイの金属粉が纏いついていて、青薔薇の帯留めが目に入って。
早く、洗い流さなければ。早く、脱いでしまわなければ。
そんな考えを記憶の中、小さな手と大きな手に咎められる。
不意に切なくなって、生まれ持った両の天蓋をきつく下ろした。蜜色をした二つの真珠を守ろうと貝殻を閉ざす様に。
それでも胸元から立ち上る桃の香りからも断罪の様に降り注ぐ青い月光からも逃げ切れなくて、先程済ませてしまった行為の時は一切出てこなかった涙の熱さに天蓋の奥へ縮こまった臆病で狡い自分が焼かれながら沈められる幻覚に襲われた。
昔から致命的なまでに下手なことが一つだけあった。
感情が、顔に出ること。綺麗なだけの笑みならいいのに、水彩絵の具が滲む様に哀しみも嘲りも喜びも排除することがどうしても出来なくて。
けれど、こうも考えた。嘘とは、全て逆さまにすべきことか?
…きっと、答えは否。嘘は、真実から出でる。真に露見し難い嘘には、真実が混ざっている。
それから。僕は口許を隠すことを覚えた。
【Occhi del diavel】
君には、どんな風に見えているんだろう。
笑っているのか、引き結ばれているのか分からないだけで、曖昧さはぐっと深まる。
「こんな簡単に罠にかかるなんて馬鹿な人」
それとも、
「こんな風に騙されるなんて可哀想な人」
もしかしたら、
「ごめんね」
いいや、何も言いはしないよ。見せもしない。魅せられないものは、見せるべきではないから。
袖に、袂に、音の乗らない空の言の葉をそっと隠してしまうんだ。
本当の気持ちを無理矢理捻じ曲げるこの力を行使する以上は蔑みも自嘲も謝意も悟らせなどするものか。
本音・真実、十字架…全ては僕だけのもの。
こんなかわいこぶった仕草、『あざとさの強調』にしか思われはしないだろう?
別れの約束が付いた蠱惑の瞳、これを見る君が蜜の海の底に沈む真実を見つける前に。
――――今日も、僕は君を騙すんだ。