沈黙の恋人たち｜リアクション

沈黙の恋人たち

　その日、深倉理紗子は図書館にいた。
　彼女にしては珍しい、平日の非番である。
　完全に休暇が取れるなど、内科医、それも駆け出しの彼女にはきわめて珍しい。
　だが、妙に目がさえてしまった。
　躰を休めるだけの休日や、無気力に過ごす時間に慣れてしまったのだ。どうしようもない激務の連続、スイッチをうまく切り替えられない。携帯で呼び出されれば、病院へ行かなければならないという切迫感もあった。

（最近では、マトモに本を読む機会がない……）
　書架を眺めて、理紗子は心を宙宇に漂わせる。
　見るものといったら、病院での定例勉強会のレジェメ、内科のミーティングでの資料、関連書籍もインターネットで調べ、無味乾燥な記述を追う。
　簡素で、実用に特化された論文。
　翻訳のパッチワークの医学書。これはあからさまに誤訳ではないか、と理紗子は気づいても、態々修正する気力もない。自分のほうで直してしまう。
　あまりにも味気ない。といって、けたたましいテレビなどはなおさら心をすり減らすだけだ。

　ずらり並んだ本。
　数年前に、名前だけ聞いたベストセラー。
　学生時代、知人が好きだと言っていた作家の本。
　朝の情報番組で、アイドルが作り物めいた笑顔で「とってもオススメ」と言っていたエッセイ。
　どれも理紗子の心には虚ろだった。

　歴史小説。
　純文学。
　恋愛小説。
　推理小説。
　海外文学。

　どれも、自分の気分には合わない。
　ぱらりとめくって、首をかしげて棚に戻してしまう。
　感覚が磨滅してしまったのか。
　そんな、益体のないことも考える。
　どれもこれも、妙につくりものめいているのだ。

　ふらふらとあてどなく、午後の光が満ちる歩廊を歩く。
　その一隅に、何か様子の違ったコーナーが設えてあった。

（特設コーナー……？）

　寝子島ゆかりの品が、いろいろと展示されているらしい。
　ビスクドールのように美しい少女……三宅葉月が、美術品を仔細に眺めているほか、取り立てて人影はない。
　
　理紗子は足を踏み入れる。ぐっと、過去の時間が濃密に凝って、理紗子の躰に押し寄せてきたようだった。

　今と、全く異なった様相の古地図。
　砂浜から見つかったという、古代の瓦。
　複雑な文様は、手間をうかがわせるものだった。
　いかなる情熱と敬神の思いが、彼らのこれを作らせたのだろう。

『豊穣神の像』
　そう札のかけられた土人形も、古拙というか、どことなく愛嬌に満ちて、疲れた理紗子の笑みを誘った。
　少女の像だろうか。女性を信仰する古代宗教は多い。

　不意に理紗子は、自分の周りの風景が蜃気楼のように希薄になり、遠のいていくのを感じた。
　それは現実感の喪失ではない。むしろ、意味を失って磨滅した世界に、古代からの脈々たる息吹が立ち返る瞬間だった。
　茫々たる感慨にさらされて、理紗子はくらくらする。

　歴史のことはわからない。それでも、そこに生きて、そこで祈り、生活を営んできたものたちがいるという厚みは、彼女に理解できた。
　日々に埋没しているもの、ほんらい教養深く、感性が豊かで、そして患者との応対にあっても、医師としてではなく、人と人のかかわりを重視する（それゆえ、人の倍ほどに磨滅してしまう）彼女であるからこそ、それを感じ取ることができたのだ。

　以前寝子島を訪れた友人が、自分を誘ってくれた時、この島のことを何も知らず、笑われてしまったことがある。
　そのあとで、まじめな顔で窘められた。

　今度は、自分がエスコートするのもいい。
　ネットのニュースなどでも、彼女の話題は引きも切らない。次に会えるのはいつのことになるのかわからないが、ちょっと変わった話題を仕入れて、驚かせるのもいいだろう。
　年配の患者と話す際にも、きっかけづくりになる。

　記載されているホームページを、スマホにブックマークしておいて、彼女は書架から貸し出し可能な寝子島の資料を、数冊引き出す。
　