幼き日の君へ｜リアクション

幼き日の君へ

■何処か遠くへ

　電車の振動が眠気を誘う。
　本土へ向かう車内には、自分と数人の乗客のみ。規則的な音に、段々と瞼が落ち始める。
　電車は先ほどシーサイドタウンを出たばかり。まだ、本土に着くまでは時間がある。
　朝鳥さゆるは眠気に抗わず瞼を閉じた。長い睫が、白い肌に影を落とす。

　ふわりと、花の香りがした。
　ゆっくりと目を開けると、身体に妙な気だるさが残っている。まるで、長い間眠ってしまっていたような――気だるさを振り払うように頭を軽く振ると、さゆるは妙なことに気が付いた。
　自分以外の乗客がいなくなっている。
　携帯電話を取り出して時間を確認するが、電車に乗った時からさして時間は経っていない。
　一体何が起こったのかと、さゆるは思考を巡らせる。靄がかかったようにぼんやりしているのは、寝起きのせいだろう。
（まあ、何かが起きたら、その時に考えればいい――）
　結論に達したさゆるの瞳に、一人の少女が映る。
　誰もいないと思っていたが、どうやら見落としていたらしい。
　小学校に入学するくらいの年齢だろうか、年相応の可愛らしい顔立ちをした少女が、一人で座っていた。
（誰かに、似ている……？）
　妙な既視感があった。思わず、さゆるは少女を観察する。
　櫛で整えられたセミロングの髪に、外の風景を映す茶色の瞳。
　ハイネックのセーターにジャケットを羽織り、タータンチェックのスカートを身に着けている。きっと仕立てが良いものなのだろう。それは、少女によく似合っていた。
　少女は唇を閉じ、じっと車窓の向こうを見つめていた。その年齢に似つかわしくない、陰のある雰囲気を纏いながら。
（……あたしに、よく似ている？　あれは、もしかして……）
　脳裏に、幼い頃の思い出が蘇る。
　息が詰まり、さゆるの胸が小さく痛んだ。

　誰もいない家。広い家の中で、幼い頃のさゆるは一人だった。
　多忙で不在がちの両親と共に食事をとったことなど、数えるぐらいしかない。
　その日も家の中は静まり返っており、耐え切れなくなって幼いさゆるは家を出た。確か、六歳の頃。
　鞄の中に着替えとお金を詰めて、ここではないどこかへ行きたいと電車に乗った。そうして、流れていく景色をひたすらに見つめていた。
　胸が詰まり、さゆるの表情が歪む。寄せられた眉根、震える唇――涙は出なかった。その顔には、諦念が漂っている。
「……あの頃から、あたしはもがいてたんだ……結局、どこにも行けないのよ」
　掠れた声で零された呟きは、少女には届かなかったようだ。少女は、変わらず窓の外を見つめている。
　胸を片手で押さえ、さゆるは在りし日の自分を、そっと目を伏せて見つめていた。
　どこにも行けないままの自分と、どこかへ行きたいと願った自分。
（あたしは、何も変わっていないのかもしれない）
　そんな独白を胸中に落とし、瞬きを一つすると、どこからか花の香りがした。
　目を開けた時には、少女はいなくなっていた。数人の乗客と、見慣れた景色があるだけだ。
　さゆるの胸に鈍い痛みを残したまま、電車は進み続ける。
　車窓に映るのは、十五の自分。
　身長も伸び、顔立ちも大人っぽく変わり、あの頃より行動範囲も広くなった。
　それでもごこにも行けていないのだと、さゆるは寂しげな色を瞳に浮かべる。
　行き先の決まった電車は、規則的な音を刻みながら進んでいた。