幼き日の君へ｜リアクション

幼き日の君へ

■幸福な日々を祈る

　女の子の、泣く声が聞こえた。
　宮祀智瑜は、目を瞬かせて辺りを見回す。幼い頃によく訪れていた、家の近くの公園。
　泣き声のする方向へ視線を向けると、少女が一人でベンチに座っていた。
「……私？」
　足元では、子猫が心配そうに鳴いている。
（そうだ、私……昔、猫を追いかけて迷子になったんでした）
　近付くと、少女の頭に影がかかる。不安げに見上げる瞳と目が合い、智瑜は微笑んだ。
　隣に腰を下ろすと、ハンカチを取り出して零れる涙をそっと拭う。
「逸れたの？」
　少女の顔を覗き込むようにしながら、優しく問い掛けると少女は小さく頷いた。
　その瞳に、再び涙の膜が張る。今にも泣き出しそうな顔をした少女を安心させようと、智瑜はゆっくり頭を撫でる。
　大丈夫だよ、と言い聞かせるように柔らかな髪に触れる。
「大丈夫、すぐに会えるから」
「うん……」
　不安げな様子はまだ消えないが、隣に人がいることで多少安心したのだろう。
　涙声で頷く少女の背中を、智瑜はゆっくりと擦る。
　秋の日差しが二人に降り注いでいた。
「そうだ……ちょっと待っててね」
　様子が落ち着いたのを見て立ち上がると、智瑜は近くの自動販売機で温かいココアを買う。
　それを手渡すと、少女が智瑜を見上げた。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
　少女は両手で缶を受け取ると、小さく頭を下げた。
「どういたしまして。ほら、この子も泣き止んでって言ってるよ」
　にゃー、と智瑜に同意を示すように鳴く子猫を抱き上げると、少女は柔らかく笑った。
　まだ瞳には涙が浮かんでいたけれど、もう泣き出すことはないだろうと智瑜は思う。
「今日は、お買い物？」
「うん。お父さんとお母さんと、お買い物に来たの」
「何を買うのかな？」
「夕ご飯の材料。今日は、ハンバーグをお母さんといっしょに作るの」
「そっかぁ、おいしいハンバーグが出来るといいね」
「うん！　猫さんの形のハンバーグ、作るんだ」
　たわいもない話をしながら、幼い頃の自分を見て智瑜は目許を和らげる。
　遠くから、両親の声がした。
　智瑜の名前を呼びながら、慌てて走ってくる姿を見て少女は安心したように表情を緩めた。
「お母さん、お父さん！」
　ベンチから立ち上がると、両親に向かって駆けていく。
　智瑜もその後を追いかけた。今はもう会うことの出来ない両親の姿に、胸が締め付けられる。
　鼻の奥がつんとするのをどうにか堪え、笑顔を作って一度頭を下げる。
「ありがとうございます……智瑜を見ててくれたんですね」
「いえ、私はそんな……良かったね。もう、逸れないように気をつけてね？」
「うん！　お姉ちゃん、ありがとう」
　礼の言葉を言われると不思議な気持ちになる。
　少女と手を繋ぎ、何度も頭を下げる母親に、少女の頭を撫でる父親。
　幸せそうな姿を見て、智瑜の胸が熱くなった。
　込み上げる想いを押さえつけ、智瑜は去っていく三人に声を掛ける。
「あの……車の運転には気をつけて下さいね」
　心のどこかで、現実の未来は変わらないと分かっていた。それでも、言わずにはいられなかった。
　不思議そうな顔を浮かべながら買い物に向かう三人に向けて、智瑜は笑顔で手を振る。
　この世界で暮らす自分が、ずっとあの笑顔を浮かべていられるように願いながら。
　
　背中が見えなくなったところで、花の香りがした。
　両親の姿も、幼い頃の自分の姿ももう見えない。
「お父さん、お母さん……」
　智瑜はか細い声で呟いた。
　頬を、冷たいものが伝う。両親と過ごした幸せな時間は、今もこの胸に息づいている。
　季節はあの時と同じ、秋。変わらぬ風の香りに、智瑜は口元を押さえて、零れそうな涙を堪えていた。