幼き日の君へ｜リアクション

幼き日の君へ

■始まりの音

　唇を尖らせ、下宿先までの道を行くのは入江みつび。
（あの莫迦、ほんと腹たつなー……いつも笑顔で余裕ぶった顔してさ）
　ポニーテールを揺らしながら、親類の顔を思い出して頬を膨らませる。
（いっつも私が悪いみたいじゃんこれ）
　遠回りをして、少し頭を冷やしてから帰宅した方が良いかと、みつびは踵を返しかけた。
　その瞬間、花の香りがしてみつびは目を丸くする。

　不思議に思って正体を確かめようと辺りに視線を走らせた時には、親類の家の中にいた。
　魚新の一室、小学二年のみつびがギターを眺めている。
（これ、魚新に初めて来た時だ）
　両親が他界し、親類の家に引き取られたばかりの頃。家の中を歩いていたら、ふとギターを見つけて駆け寄った。
　止める声を振り切って、幼いみつびはギターに手を伸ばす。
　敵ばかりに見えていた親類の家で、ギターだけはみつびの興味を惹いた。弾いたらどんな音がするのだろうと、期待に頬を紅潮させながら少女はギターを引き寄せる。
（今見たら、あのギター45だったんだ。あ……この先、私しってる）
　当時は意識していなかったものの、ギターに興味を抱いた今、それが高価なものだと分かる。
　廊下からそっと室内を覗き込むみつびには気付かず、少女はギターを鳴らそうとネックを掴んだ。
（ギターは思ったより大きくて重くて、落として壊し――）
　回想が終わる前に、嫌な音が聞こえた。
　少女には重すぎたのだろう、ギターを落としてしまい、少女の顔が真っ青になる。
（あっちゃー最悪だよねこれ）
　既に結末を知っているとはいえ、見ていて気持ちの良いものではない。
　みつびは口元を押さえて目を逸らす。
　部屋の中では、少年が少女に何やら話しかけているようだ。
（そう、そしてあの莫迦はこの時も余裕で「ボクが壊したことにするから、あっちいってて」とか言ったんだ。よそもの扱いかよって思ったっけ、あん時も……）
　記憶を掘り起こしながら、みつびは眉を寄せた。
　少年が部屋から出てくると、見つからないように廊下の角に身を隠す。
（いつもなんでも出来ますみたいな顔し……あ、一人で謝りに行った）
　みつびは瞼を半分程落とし少年の背中を見送った。
　彼はもしかしたら泣いていたのかもしれないと、そんなことを考えながら。
　思い返すのは、初めてギターを弾いた日の音。
　この出来事があった翌日、ギターを教えてもらった。
　小さな女の子の手ではコードなど押さえられるわけもなく、コードを押さえてもらいみつびは弾くだけだったが、それでも楽しかった。
　背中に感じる温もりと、響くギターの音は、追憶の中で色褪せることがない。
（あの時、私は新しい道を見つけた）
　敵ばかりではないのだと知ることが出来た。
　ギターを弾くみつびと、何も言わずそれを眺める少年。
（――やっぱあいつ莫迦だ。再確認させてもらったわ）
　ギターを弾くきっかけとなった出来事と共に、一人の少年の顔を思い出す。
　彼がいなければ、自分はギターを弾いていなかったかもしれない。
（そして私は、もっと莫迦だ……）
　今更気付いたことに、みつびは表情を曇らせた。溜め息を吐いて、顔を俯かせる。
　
　先ほど嗅いだのと同じ花の香りがして、みつびが顔を上げると、風景が変わっていた。
　そこには幼い自分も、少年の姿もない。いつもと変わらぬ帰り道。
「やっぱり、真っ直ぐ帰ろうかな」
　みつびは呟くと、踵を返して魚新へ向かう。
　頭の中では、初めて弾いたギターの音が響いていた。