幼き日の君へ｜リアクション

幼き日の君へ

■僕のいない未来を

　ずきずきと、小さな痛みが額に走る。
　確かめるように手を遣る、どうやら恵御納夏朝が転んだ拍子に、自分が表に出てきてしまったらしいと、夏朝の別人格である夏夜はそう分析する。
　衣服に付いた土埃を軽く払って立ち上がると、夏夜は辺りを見回した。
　田畑に囲まれた、どこか牧歌的な風景が広がっている。寝子島とは違った景色に、夏夜は頭の中を探る。
（ここは……夏朝の生まれ故郷か）
　未だ、自分が夏朝の中に存在しなかった時。夏朝は父の実家の近くであるここで生まれ、小学校を卒業するまで過ごした。
　夏夜の耳に猫の鳴き声が届く。
　そちらへ目を向けると、赤いランドセルを背負った少女が猫の傍らにしゃがみこんでいた。
　ランドセルに提げられた、白猫のぬいぐるみのお守りが猫の尻尾と共に揺れている。
（あれは……幼き日の夏朝？）
　夏夜は少女の姿をじっと観察する。
　緩い癖のある髪は長く、今とは印象が違う。
　夏夜は少女に近寄ると、しゃがみこんで話しかけた。
「猫、好きなの？」
　少女は動きを止めると、ゆっくりと夏夜の方へ顔を向けた。
　何度か瞬きをしてから、傍らで喉を鳴らす猫を撫でつつ頷く。
「うん。猫、大好きなの。……お姉さんも、撫でる？」
「いや、僕はいいよ。猫、好きなんだろ。君が撫でるといい」
「……うん」
　少女が猫の喉を擽ると、猫は気持ち良さそうに目を細めた。
　猫と少女――幼い夏朝の姿を見て、夏夜は彼女に待ち受ける未来を思い描く。
　豊かな髪は、引越し先の中学で切られることになる。
　そして、大事な存在を無くして、自分――夏夜が生まれる。
「ねぇ、少し話を聞いてもらえるかな。猫と遊びながらでいいから」
　夏夜は、そっと少女の頭に自分の手を乗せる。
　慈しむように髪を撫でながら、自分が知る未来の話を始める。
「君は、小学校を卒業する頃に引っ越す事になる」
　少女と視線を合わせながら、言い聞かせるように言葉を続けた。
「小学六年になる頃、父さんと母さんが話をし始めるから、必ず『つくばに行きたい』と言うんだよ」
「つくばに行きたい？」
「そう。そうすれば、きっと平和に暮らせるから」
　夏夜の言葉が飲み込めていないようで、少女は不思議そうな顔で首を傾げている。
　夏朝をいじめていた生徒達は、最終的に「自滅」する。その後、夏朝が再度引っ越した先の茨城県つくば市では何事もなく平穏な日常を送ることが出来た。
　先につくば市へ引越してしまえば、夏朝はいじめに遭うこともなく過ごせるだろうと……夏夜は自分を見上げる少女に言い含める。
「よく、分からないけど……覚えておくね」
　少女の言葉に、夏夜は頷いてもう一度頭を撫でた。これで、悲劇は防げるかもしれないと淡い期待を胸に抱いて。
　猫の鳴き声が耳に届き、花の香りが辺りに漂う。

　気がついたら、夏夜は寝子島に戻っていた。
　自分が存在しているということは、夏朝を襲う悲劇は防げなかったということだ。すぐにそれを悟り、目を伏せる。
「……現実は変わらない、か」
　溜め息を吐き出すと、髪に触れた。短く切られた髪の感触は、少女の髪と一切の違いがない。
「せめて、あの夏朝が無事に過ごせるといいな」
　そんな未来があってもいいだろうと、猫と戯れる幼い夏朝の姿を思い出しながら、夏夜は痛む額を擦った。