幼き日の君へ｜リアクション

幼き日の君へ

■新たな決意

　庭からは鈴虫の声がする、静かな夜だった。
　八神修は実家で過去の日記を読んでいた。
　幼い自分が記した日々の記録に目を通していくと、記憶の奥底にしまわれていた思い出が蘇ってくる。
　ふと、どこからか花の香りが漂ってきた。
　ページを繰る手を止め、修は顔を上げる。

　部屋には、太陽の光が差し込んでいた。
　窓の外に広がる日本庭園には、少年が一人。柔らかそうな髪と、どこか利発そうな雰囲気を纏っている――幼い頃の修の姿だった。
　修は、何も言わずに彼を見守り始める。
　ぶんぶんと不快な音を立てる、羽虫の大群。
　黒い靄のようにも見えるそれが、少年に纏わりついていた。
　少年は必死に虫を払いのけるが、いくら払っても少年から離れる様子はない。
「ひっ……！」
　目を閉じ、口を両手で押さえて少年は駆け出した。
　動物とは全く違う形をした、小さな生物。腕に、顔に、髪に……それらは小さな羽音をさせながら、少年の周りを飛び回る。
　目を閉じると一層羽音が耳につく。少年は必死に走り出した。
　離れて眺めている修でさえ、けして気分の良い光景ではない。当人は尚更だろう。
　滲みそうになる涙を堪え、少年は足を動かす。――と、前を見ていなかったからだろうか、庭に植えてある大きな木にぶつかってしまった。
「痛、た……」
　思わず尻餅をつく修が木を見上げると、羽虫よりも大きな羽音が耳についた。
　木に作られた巣から、何匹もの蜂が飛び出してくる。
　少年が木にぶつかった拍子に、蜂を刺激してしまったのだろう。
　蜂達は真っ直ぐに、修に向かって襲い掛かった。
「ぅ、わ……っ！　待って、来ないで……！」
　羽虫とは違い、明確に攻撃の意志を持って飛んでくる蜂の姿を見て、少年の顔が恐怖に染まる。
　涙声で訴えかけるが、蜂に言葉が通じるはずもない。
　慌てて木から離れる少年を、蜂が追いかける。
　逃げながら辺りを見回す少年の目に、池が映った。
　咄嗟に少年は池に飛び込み、水面の下に身を沈める。
　子供ながらに、薄い羽を持つ昆虫は水に入らないだろうと考えたためだ。
　虫がいなくなるまでにどれほどの時間がかかるのか……少年は池に潜ったまま、水面を見上げていた。
「修様が池に落ちた。誰か来てくれ！」
　一連の流れを見ていた修は、屋敷にいるであろう使用人に向かって叫ぶ。
　そして、部屋から出ると池に駆け寄り、中に入って少年を抱える。
　濡れた体を引き上げ、池のほとりに横たえると修は上着を脱ぎ、頭上で大きく振って蜂の注意を引き付けた。
　そのまま走り出し、池から遠ざかっていく。
　これで、少年が再度蜂に襲われることはないだろう。
　修の背後で、声を聞きつけてやってきた使用人の声がしていた。修は安心して、屋敷から遠ざかる。
　庭から屋敷に出ようとした時、また花の香りがした。

　夢から覚めたような感覚を覚え、修は数度目を瞬かせる。
　外は夜。虫の声が良く聞こえている。
　開いたままの日記のページには、幼い文字で書かれた一文。
　――虫に追いかけられた。怖かった――
　修の脳裏に、一つの記憶が蘇る。
　まだ幼かったある日、虫に追いかけられたのを契機に虫が嫌いになったこと。
　あまりに嫌な記憶だったためか、今まで奥底にしまいこんでいたこと。
（――これは、蟲嫌いと向き合えってことか）
　庭先へ目を遣る。虫の声はするが、姿は見えない。
（嫌いなものは、少ない方が良いしな）
　心の中で小さく呟き、修は決意を固めた。
　虫は、静かに鳴き続けていた。

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