あなたのそばに蕎麦屋すすきのーすすきのー｜リアクション

あなたのそばに蕎麦屋すすきのーすすきのー

　……そして彼は暖簾を潜り、この蕎麦屋を見出した。
　
「……」
　カウンターに座ったまま、八神修はきょとんとしていた。
『すすきの』という看板が目に入ったのを覚えている。
　ほのかに出汁の甘い香りが鼻をついたのも覚えている。
　気が付くと、蕎麦屋にいた。
　
　とある有名なグルメ漫画は、料理界の皇帝が、ふと町の食堂を訪れるところから始まる。
　
「いらっしゃいませ、あなたのそばに蕎麦屋すすきのーすすきのー」
　臙脂色の服を着た少女を見て、修はおやと思う。見知った顔だった。
　相手も自分に気づいた風をみせたが、それを表に出さない。
「そうだな……天麩羅蕎麦。蕎麦は別皿で頼むよ」

　その注文が入った瞬間、店主の顔色がさっと変わる。
　五月に目くばせが入る。彼女も無言で頷く。
　
　蕎麦に偏愛を抱く「蕎麦マニア」も、「すすきの」には訪れる。
　なまじな知識をひけらかす半可通。
　あきれるくらい浩瀚なトリビアを繰り広げる博覧強記。
　今、蕎麦を注文した彼は、そのどちらでもない。
　只、蕎麦を愛する。
　もっとも手ごわく、辛辣なタイプだ。
　
　蕎麦懐石で、蕎麦を嗜んできた修。
　蕎麦を愛し、蕎麦と対話する。蕎麦と正面から対峙する。
　
　供された蕎麦と天麩羅は、それは見事なものだった。
　ぼうとした明かりに、修は天麩羅を晒し、驚嘆する。
「見事に花を咲かせたな……」それでいて、格調もある。
　天麩羅専門店の『衣を通して蒸す』天麩羅とは違い、蕎麦屋の天麩羅は汁を吸うように花揚げに衣を咲かせる。
　といって、あまりごてごてと花を咲かせるのはよろしくない。
「すすきの」の天麩羅は、蕎麦との相性をかんがみた、絶妙の出来だった。

（今時分は新蕎麦かな……）
　澄んだ出汁に、かぐわしい山野の匂いが立つ。
　まずは蕎麦を楽しむ。
　
（いけるな……）
　蕎麦を口に運びながら、修は唸った。
　太さもコシも絶妙、繊細な仕事がうかがえる。
　此処で轢いているのか、すがすがしい香気が口内に満ちる。
　汁も間然とするところがない。
　
　天麩羅もこれだけで十分賞味に足る。
　が、その本領は汁に沈めた時にある。修は躊躇なく天麩羅に汁を吸わせる。
　ジワリと油が染み出て、モロモロと衣が崩れていく。
　出汁の旨みが、天麩羅と絡み合い、絶妙の風合いを醸し出していた。
　実に完成度の高い天麩羅蕎麦だ。

「美味い」修の一言で、五月と店主の顔が晴れる。
「十割ではないな」修の言葉に店主がうなずく。
「この時期、十割は香りが強すぎるからな
「つなぎは卵白、それとも……山芋かな」
「ご名答！」

　知識も豊富、なにより溢れる蕎麦の愛。

　どろりとした、まるでポタージュのような蕎麦湯。
　やわらかに薫り立つ甘みを味わいながら、修と店主の蕎麦談義は尽きない。
「ざるやもりでなくても、蕎麦湯は楽しめるからな」
　
　そこから、蕎麦の水談義。
「蕎麦は水が命ですから。毎朝ポリタンクで汲んですな」
「繊細な食べ物だからな……水の味に大きく左右される」
　蕎麦懐石を嗜む修。水の繊細な味を、よく心得ている。
「打ち水が風味を左右し、茹で上げを締める水は直接の味に関わる」
　うーん、と唸る店主。「見事な通人っぷりだ、兄ちゃん!]

　じいちゃんの笑顔を見て、五月もにっこりほほ笑む。
　と同時に、修の博識に、ひそかに向上心が燃えたつのも感じる。

　まだ、奥の深い蕎麦の道。地道に精進しなければ……。