ココデハナイ、ドコカ｜リアクション

ココデハナイ、ドコカ

　藤堂静はジャケットの胸ポケットを探りました。
「こいつを買って、さぁ戻って店の準備をと思ったらこのザマだ」
　そこには買ったばかりの煙草が入っています。静にとっては今ではこれが、現実の世界と現在の自分を結ぶ舫い綱のようにも思えるのです。
「まぁ、日が落ちて夜が来る前のこの空は嫌いじゃないんだが……ずっとこのままというのはなあ」
　言いながら彼は煙草を一本抜き出しました。マッチを擦ると一回で火がつきます。紙巻きの尖端を炙って蛍火が灯ると、甘苦い煙を胸一杯に吸い込みました。肺の毛細血管に煙が、ちくちくと染みいるのを感じてから、細く長い煙を吐き出します。
　煙草を咥えたまま、静は歩き出しました。ポケットに両手を入れ、軽く背を丸めて。
　普段歩行喫煙は控えているのですが今回は非常時です。そもそもこの場所に、迷惑禁止条例があるとはとても思えない。
　それよりは、目の前の連中のほうがよほど迷惑行為をしています。虚ろな目をしながら八百屋の果物を踏み越え、『自動車進入禁止』の看板をなぎ倒して迫り来るあの連中のことです。
　彼らは年齢性別ともにまちまちですが、あきらかに常軌を逸しているという点で共通していました。なんと五人もいて道一杯に広がり、静を目指してやってくるのです。
　静はもう一度、深々と煙を吸い込みました。
「アンタらが何だか俺は全く見当がつかんし、興味もない。ただ、行く手を遮るんなら道を開けてもらおう。あいにくと夜には、船（店）を出さなきゃならんのでね」
　奇怪な住民の一人、その指先が静に触れそうになった瞬間、それは起こりました。
　伸ばされた手という手を、静は音も立てずかわしていきます。きびきびしたキレの良い動きは、ボクシングで身につけたフットワーク、もちろんシャープなのは足取りだけじゃない。静はその合間合間に、ためらいのない拳を繰り出すのです。砂が詰まった住民たちは、まさしくサンドバッグといったところ。次々と破裂し、黒い砂を撒き散らしました。
　所要時間三十秒といったところでしょうか。たちまちのうちに、怪住民はいずれも姿を消しました。
　浴びた砂を払うべくシャツを払う静でしたが、すぐにその手は止まりました。
「おっとっと、やべーやべー！」
　どかっとゴミバケツを蹴飛ばして、静の眼前に少年が飛び出して来たのです。
　少年は細い路地裏をくぐり抜けてきたようです。汗びっしょりで、随分と汚れていました。
　少年は、静の姿を見て飛び上がりました。
「一難去ってまた一難ってか！」
　ところが静はまるで動じず、
「下がってろ、ボウズ」
　と漁良太を押しのけたのでした。
「良かった……おっさんは、まともな人間なんだな！　俺、ずっと追われてて……」
　静はそれに直接答えず、もう一度良太を押しやるような手の動きをします。
「下がってろって言ったろ。危ないからじゃない、俺がやり辛いんだ」
　そうして彼は、良太を追って路地裏から出てきたものの鼻面にストレートパンチを叩き込みました。
　空気摩擦で発火しそうな鋭い拳です。追っ手の警官は、一撃で破裂して黒い砂袋となりました。死に際に、「ウマッター！」と奇怪な絶叫を残して。
　しかし良太は路地裏の方向を指さして声を上げます。
「油断しないでくれ！　まだいるんだ！」
「……ボウズ、お前、ぞろぞろ連れてきたもんだな」
　良太の言う通りでした。路地裏の狭い道を大小様々な異形の姿がやってくるのです。ある者は荒い息をして、ある者は意味不明な言葉をわめきながら。
　まったく、とつぶやいて、静はジャケットの懐に手を伸ばし、ウイスキーのミニチュアボトルを取り出しました。これを異形集団の先頭に投げ込みます。ボトルは音を立てて砕けました。
　ボトルを追って飛んだのは、静が靴底でこすった硫化燐マッチでした。
　ぽっと青白い炎が上がりました。たちまち先頭の者が火だるまになり、後続にも大混乱が訪れます。
「来い。見世物じゃない」
　静は背を向けて歩き出しました。慌てて良太は彼に並びます。
「助かったよ、おっさん。俺、漁良太、小学４年だ。母ちゃんのお使いの途中で、変なところに巻き込まれちまって……ずいぶん逃げたんだぜ。おっきいゴミ箱の影とか公園の木の上とか、あちこち身を隠して移動して……」
「わかったわかった。俺も同様の身だ。出口を探すぞ」
「おっさん、名前は？」
「Silenceだ」
　それ以上語らず、静はマッチ箱を放り投げました。
　慌てて良太はそれを受け止め、箱に、『Hollander』と記されているのを目にしたのです。

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ココデハナイ、ドコカ

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