ココデハナイ、ドコカ｜リアクション

ココデハナイ、ドコカ

　五十士柊斗は、自分が倒した相手……今はただの黒い砂ですが……を、菫色の目で見おろしていました。
「こんな時に役に立つなんて思ってもみなかった」
　役だったのは護身術です。母親から教わったもので、合気道を応用して暴漢を投げたり、転倒させたりする技術が中心でした。今もとっさに大柄な男性を投げ飛ばして、砕いて砂と砂袋に変えたところです。
　柊斗にとって護身術は、身を守る以上の目的はありません。ゆえに相手を戦闘不能にすることよりも、一時的な足止めをするにとどめるつもりでした。それが完全に撃破してしまったのは、相手が思った以上に脆い存在だったからです。ちょうど砂の城が、波のひと洗いで消えてしまうように。
「それにしても……」
　柊斗は自分の成したことに絶句します。額に手を当て、切れ長の目で足元を見回すのです。
　これを全部俺が、と。
　柊斗が倒したのは一人に限りませんでした。相手は押し寄せる人・人・人の集団だったのです。投げ飛ばした相手につぶされて砕けた者もあります。けれども、直接相手しただけでも十人は下らなかったでしょう。
　それをただ一人で撃破してしまった。彼は己の強さに酔うよりも、むしろ、己に恐怖すら感じるのでした。
　けれども惑っている暇はないでしょう。ほんの偶然で迷い込んだにせよ、はこの偽りの商店街から脱さなければならない。いつまでもここにいれば、この世界を構成する一部になってしまうような気がするのです。
「こんにちは」
　はっとして振り返ります。
　いつの間に現れたのでしょう。柊斗の背後には、屈託のない笑顔を浮かべる少女の姿がありました。
　妹？
　彼の妹でしょうか。
　いえ、彼女がここにいるはずはありません。
　しかし妹と同じくらいの年頃です。黒っぽいワンピース着て、黒い靴下、黒いシューズです。
「君は……」
　誰？　と言いかけて柊斗の喉から水分という水分が枯れ果て、舌も口蓋に貼り付いてしまいました。
　妹じゃない。妹であっていいはずがない！
　屈託のない笑顔、というところからして既に見間違い、少女は『連中』の一人だったのです。
「こんにちはこんにちはこんにちうわあああああああああああああ」
　あとは言語にすらならぬ甲高い叫び声へと変化していました。
　少女は布の裁断に使うような大きな鋏を柄ごと、しかも逆手に握って、スキップするような足取りで駆けてきたのです。
　駄目だ――柊斗は目をつぶりました。
　彼女だけは倒せない。
　彼は念じます。彼にだけ許された力の目覚めを。『ろっこん』を。
　手近な建物向かって駆け出すと、彼はその壁を垂直に走って登りました。まるで重力の消失した宇宙船内のよう。これこそ柊斗の力『天を地に』です。
　三階建てのビルの屋上までたどり着き、柊斗は力を解いて座り込みました。
　ふと思いついて、柊斗はスマートフォンを取り出しました。携帯が使えれば、外部と連絡が取れると思ったのです。
　ところがその画面から読み取れたのは、『圏外』という非常な文字ともうじきバッテリーが切れるという意味のマーク、それに秒針が止まっている時計表示でした。
　なぜだか柊斗は、この事態を予測していました。だから特に驚きません。
　驚いたのは別のことにです。
　一通だけ、メールが来ていたのです。どうやらこの場所に迷いこむ直前に届いたもののようでした。
　真っ赤なバッテリー表示に急かされつつこれを開封しました。
「………………」
　その文面については、作者の私も口を閉ざしましょう。
　ただそれが、柊斗の妹からのメールであったことだけ明かしておきます。
　ここから出なくては、改めて彼はそう思いました。