温かい気持ちになれるような｜リアクション

温かい気持ちになれるような

　　【常闇月の静かな一日】

　帰り道。とても甘い素敵な香りがした。

　常闇月は歩いていた足を止める。そこには、赤い屋根がモチーフの可愛らしいパイのお店。ついふらりと足を向けかけてから、ふと自分の財布を確認した。
　今の所持金でパイ屋さんに寄るお金はあるのかと心配になって、根強いファンも多い「キレニャンコ」をモチーフにしたお財布を覗き込む。
　プレゼントされた大事なお財布には、テイクアウト分までしっかりと確保出来そうなお金がきちんと収められており、月はほっと小さく息をつく。

　ドアを開ければ、一部は賑やかで楽しそうに盛り上がっているが、その箇所以外はまだ静かで、店内はしっとりとした雰囲気に包まれていた。

　月の着ている冬服と首には毛糸のタータンチックマフラーでは、若干温かすぎる為、入り口に入った時点でマフラーを取る。
　レジカウンターへ向かい、メニューを確認すれば、星ヶ丘にあるお店にしては、予想していた金額よりも若干安く、月は改めて安心した様子で再度メニューをちらりと見直した。

　そこには、様々なパイの名前が並んでいる。
　店内では、テーブルを手際よく片付けている八葉ひまりの姿があった。今レジにいるのは違う女性だ。
　静かながらもアットホームさを感じる。自分には無縁だった温かさを感じるのは、恐らくこのお店が家族によるものだからだろうと、月は何となく悟った。
　
　その柔らかさに、無意識に月の口元に優しい微笑が浮かぶ。
　「それではチェリーパイとホットコーヒーをお願いします」

　案内されたのは二人席だが、窓際から良く見える外の様子に秋の紅葉に彩られた街並みが見える席だった。
　今日は外も暖かく、窓際であっても、もうすぐ一気に冷え込むであろう寒さとは無縁なもので。月はゆっくりと今ある時間を味わうように、その街並みを眺めていた。

　配膳と片づけを中心に行っているのであろうお店のお手伝いをしている、ひまりの手から、静かに音を出来るだけ立てないようにと、そっとテーブルの上に置かれたチェリーパイとホットコーヒーが香ばしい匂いを漂わせている。

　月は、チェリーパイを一口そっと入れて、
　「……おいしいですね」
　言葉は少なく。しかし表情は言葉と共に、目を大きく開いてその美味しさを伝えていた。
　少し離れたところから、その言葉を聞ける事の出来たひまりは、顔にはほんの僅かな微笑と、心の中では自分の父が作ってくれるパイが美味しいと言ってもらえる幸せをかみ締めた。

　落ち着いた星ヶ丘のお店の中ではこぢんまりとしたパイ屋さん。
　そこで出される美味しいパイと静かな時間──
　月は一人だからこそ口には出さなかったが、心の中は幸せで一杯だった。

　「(そういえばこうしてただひとりで、自分だけの時間を過ごすというのは久しぶり……、いえ、楽しいとなれば初めてかもしれません。
　今度は人を誘って来てみましょうか)」
　しみじみ思案をしつつ、ホットコーヒーを味わい視線を外に向ければ、窓の外には行きかう人の流れが見える。

　ふと、月はテーブルの上にあったテイクアウトメニューを目に留めて、その中にも多くのパイがあることに気がついて、僅かに目を輝かせる。
　チェリーパイとコーヒーを食し終えた後、会計の時に僅かながら、少し慣れない様子でテイクアウトの注文をする。

　「ではチェリーパイとアップルパイとを一つずつ、テイクアウトでお願いします」

　生い立ち上、まともな日常を経験した事の無い「日陰」にいた月にとって、
　この時間こそが、普通の人が過ごす「日向」である事にはまだ気づかない。

　それでも──温かい日常は、今確かにここにあった。