月のお散歩｜リアクション

月のお散歩

　静かの海。
「ここならバッチリだ」頷く聖華。広さも十分。平坦で、光の量も十分。
　聖華は頷いて、夕市を見る。
「見ろ、最高のカンバスだ！　思い切り描いて見せてくれ、ヘッジホックのアートってやつを！」
　石柱にぶつかりまくって、呆然としていた夕市が、体を震わせる。
「アート……」ぽやぽやしていた夕市の、視点がじわじわと結ばれていく。
　なにか、掴めそうな気がする。
　おぼろげで、霞がかかって。
　それでも、その向こうには、確かに何かあったはずなのだ。

「……」

　うつろな目で、夕市はスプレー缶を取り出す。
　ともかく、何か描いてみれば、見つかるかもしれない。
　覚束ない手つきで、スプレー缶のノズルを押す。

　ぶしゅぅぅぅぅ！！！

「うわっ！」

　真空中で噴射するガスは、希薄な大気の中で拡散する。
　真っ赤なラッカーを、全身に受けてしまう夕市。
　その眼が、再びうつろになっていく。
　だらりと脱力、瞳の焦点がぶれはじめる。
「うーん、やっぱ駄目だ……」

（やれやれ……）
　聖華はため息をついた。
　芸術科の人間に、自己管理の下手な奴は少なくない。自分だって、ドラムがうまくいかないときには、落ち込んだりする。
　だが、ここまで気分屋の人間というのは、そういない。
「あのさあ……」
「へ？」
「ヘッジホック……お前さ、スプレーだけで描くのにこだわるンだな」
「スプレー……だけ？」
　考えても見なかった。絵具に自分がしばられているなんて。
「別に、いいンじゃね……指で描いても」
「……」
「えーと」聖華は飛び跳ねる。「自分は、パーカッション……打楽器を吹奏楽部でやってるんだけどさ、どんな打楽器でも使いこなせなきゃなんないワケ」
　もちろん、それが任されるのは、聖華のリズム感が信頼されているからなのだが。
「だから、これがいいとか、アレじゃなきゃヤダ、なんて言えねぇわけ。
　同じ打楽器でも、マレットとスティック……まあ、叩くものだ。
　それを使い分けるなんてこともやるんだぜ」
　こともなげに言って見せるが、これはすさまじいことだ。
「道具なんか、気にしてらんねえよ！」

　言うなり聖華は、ふたたび夕市の腕をつかむ。
「うら！　グダグダ考えてるなら、自分と一緒に『ストンプ』やろうぜ！」
「ストンプ……」夕市が聖華を見る。思ったより顔が近い。
「足とか手をな、踏み鳴らしたり、叩いたりして音を出す方法さ！」
　聖華はそのまま、脚でリズムをとる。
「こうやって……うわっ！！」
　強く踏みすぎた聖華は、夕市と一緒に高く飛び上がる！
「うわ、ウケる……」眼下を見た聖華は、自分のいた『静かの海』が、すごく小さく見えることにぎょっとする。「結構高っ……こっえ……」

　息を飲む聖華は、常の強気を消して、無我夢中でしがみつく。
　夕市の首へと。
　宇宙空間に重なる二つの白い影。彼方には蒼く光る星。
　柔らかな宇宙気流が二人を通り抜けていく。

　永劫とも思える一瞬ののち、二人は月面に降り立つ。
「も、もうちょっと、こうだな……」天性のリズム感で、聖華はリズムを刻みだす。
　早く、遅く。軽やかで、変則的なビート。
　蹴り上げ、跳ね上がり、滑る。
　月球をそのまま楽器に変える聖華。

「どうだ？　ヘッジホック」

　夕市は答えない。　
　聖華のリズムが、全身を貫いていく。
　先ほどの浮遊の感覚。そして聖華のリズム。
　何かが、天から降ってくる。夕市を貫く。

　遮光硝子を光らせ、夕市の顔があらわになる。
　その瞳が輝く。虚ろなところはどこにもない。

「さあ、アートタイムだ！」

　夕市が指を突き出す。
　すると、そこが虹色に染まる。
　宇宙空間に遍在するエーテルが、夕市に反応し、ほのかに発光したのだ。

　虹色の軌跡を描きながら、夕市の指が踊り出す。