寝子島大橋をわたって｜リアクション

寝子島大橋をわたって

　無残に壊されたヴァイオリン。
　神嶋征一郎は、脳裏をかすめた光景をすぐに振り払った。彼が寝子高に転入するきっかけになった事件―――征一郎の才能に嫉妬した同級生たちに、愛用のヴァイオリンを壊されたことで激高し、相手に大怪我を負わせたあの事件。あれ以来コンクールからは遠のいていたが、自分の実力を図るには絶好の機会だと思い、参加したのだった。
「Toi,Toi,Toi」（トワ、トワ、トワ）
　本番前にこうつぶやくのは、征一郎の習慣だった。直前に演奏したのは、ドイツ帰りの俊英、優勝最有力候補だった。舞台袖で聞く限り、確かに強敵だとわかった。あいつを越える演奏をしなければ。
　名前が呼ばれた瞬間、観客席がざわめくのが分かる。征一郎の名は、この界隈では比較的通っているのだ。
　舞台中央に向かう足取りから、すでに他の参加者とは一線を画していた。舞台に飲まれるどころか、形容しがたい存在感を放っている。
　自分だけに注目が集まるのを感じながら、征一郎はヴァイオリンを構える。課題曲、「24の奇想曲」。流麗な冒頭部分から、観客席は息を飲んだ。音程もリズムもすべてに狂いがない。全ては点を取るために―――特殊奏法も無駄のない洗練された動きでこなし、テンポの揺れも完璧だった。作曲者の意図をこれ以上なく再現した演奏だった。聴衆は、悪魔的なヴァイオリニストと言われたパガニーニが、征一郎の身を借りて演奏しているかのような錯覚にとらわれた。
　早くも、拍手喝采が起きる。だが、征一郎の頭はすでに自由曲に切り替わっていた。準備ができると、伴奏のピアノ奏者に目配せをした。
　サラサーテ作曲「ツィゴイネルワイゼン」―――自分には本来のフル・オーケストラ伴奏こそふさわしいが、今日は仕方あるまい。その荘厳さから、余りにも有名な出だし。自由曲の方は、個性を演出する表現に切り替える。情熱的な冒頭部、哀愁漂う中間部、狂騒に満ちた終結部。速めのテンポで情感をこれ以上なく発揮する一方、技術的には丁寧な演奏である。軽やかに動く指、激しい体の動きとともに散る汗。舞台栄えも計算され尽くしている。課題曲では作曲者が乗り移ったような演奏を披露したが、今度は「神嶋征一郎の曲」を演奏しているかのようだ。対極的な演奏を同時に見せつけた征一郎に、熱狂的な喝采が浴びせられた。

　すべての奏者の演奏が終わり、いよいよ審査結果の発表となる。神嶋征一郎、篠崎響也、呉井弦月の３人は、それぞれの思いを抱えてホールのロビーに向かう。
　審査結果の、掲示があった。入賞は1位から8位まで。
　2位、神嶋征一郎。
　3位、篠崎響也。

　―――！
　響也の抱いた最初の感想は、悔しさだった。1位を取りたかったのに！でも、すぐに落ち着きを取り戻す。世間は広い。人並み以上の努力はしてきたつもりだが、どこまで視野を広く持てていただろうか。寝子島という、小さな島の中で完結してしまっていなかったろうか。この反省点は島外まで出た収穫かも知れない。
　一方、会心の演奏を見せた征一郎が1位を逃したことも気になった。たしかに、レベルの高いコンクールであることは感じていたが、意外な結果だった。横の弦月も同じだろう。だが―――
「1位のやつ、ドイツに留学してたエリートらしいな。技術で負けたとは思わねぇが、世界の広さに差があったかもしれねぇ」
　征一郎は、思いのほか冷静だった。傲慢に思える彼だが、ヴァイオリンの実力がある人間に対して一目置くこともできる。1位を逃した結果に、自分と似たようなことを考えていたのかと、響也は意外に思った。
「でも、先輩たちは流石です。僕は、まだまだ―――」
　弦月の表情は寂しそうに見えた。せめて入賞はしたかったろうに……。
　励ましの言葉をかけようとする響也より先に、征一郎が口を開いた。
「呉井、あれが見えねぇか。横に続きがあるぞ」
　征一郎の指さした先には、こう書いてあった。

　奨励賞、呉井弦月。