言の葉、消えて｜リアクション

言の葉、消えて

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星ヶ丘寮にて、今日も今日とて榛宮智は家庭教師の先生に勉強を教わっていた。
榛宮家の御曹司として、成績を優秀に保っていなければならないからだ。
先生の丁寧な指導の甲斐あって、成績は常に上々。
先生には、感謝してもしきれない。
そんなことを頭の片隅で考えたりしながら、先生の言葉を聞きつつ鉛筆をノートに走らせていた時だ。
――――。
不意に、先生の言葉が止んだ。
喉元を抑え、怪訝そうに眉をひそめている。
しかし、智にはそれを心配する余裕が無かった。
彼は彼で、たった今までノートに書いていたはずの言葉がわからなくなったからだ。
いや、それだけじゃない。これから書こうとしていたはずの言葉も全部。
智の鉛筆が止まる。
――言葉が、消えてしまった。

智の額を、冷たい汗が流れだす。
言葉が消えたという事実を一度認識してしまうと、どんどん不安が押し寄せてくる。
どうしよう。
なんでもいいからなにか言いたいのに、言えなくて。
思わず、先生にすがるような眼差しを向ける。
だけど、何が何だかわからないのは先生だって同じこと。
智が一個の問題でひっかかり続けた時にすら見せたことのない、とても困った表情を浮かべていた。
先生のあんな顔初めて見た！　どうしよう！
こんな時、一体どうしたらいいんだろう！？
意思疎通もなにもできないし、焦りと不安は募る一方。というか、正直言って怖い。
おまけに、心臓もバクバクし始める始末。
どうすればいいかわからず視線を右往左往させているうちに、目の前がグルグルしてきた。
――ああ、もうどうすればいいんだろう。
僕は何をすればいいんだろう。
どうか、誰か教えて。
思わず、先生の前だというのも忘れて涙ぐむ。

その時だった。
先生が、突如としてテナーサックスを智に持たせたのは。
あまりにも唐突な先生の行動に、不安と焦りが一瞬どこかへすっ飛んでいってしまった。
頭に疑問符をいくつも浮かべながら、サックスと先生の間で何度も視線を泳がせる。
……もしかして、これを吹けってこと？
そう視線で問いかけてみると、先生はゆっくり、しかしはっきりと頷いてみせた。
言葉以外で意思疎通ができたことに、ほんの少しだけ安心しつつ――。
テナーサックスに、息を吹き込む。

馴染みのある音が聞こえた。

言葉が消えてしまっても変わらないその音に、心がほぐれるような気がした。
続いて吹くのは、ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド。
軽く調音を済ませると、今度はお気に入りの曲を演奏し始めた。
言葉の消えた静寂に、サックスの音色が溶けていく。
……知ってる音や曲に触れると、なんだか安心する。
静寂で不安な世界が、智のサックスで徐々に温もりを取り戻していく。

無心で演奏を続けていくうちに、怖いと思っていた気持ちもどこかへ消えていった。
ひょっとしたら、サックスに吹き込む息に紛れて飛んでいったのかもしれない。

演奏が終わる頃、先生が「上手になりましたね」と優しい笑顔で褒めてくれた。
「えへへ、ありがとうございます」
そう答えてから気付く。
いつの間にか、喋れるようになっている。
「……言葉、戻ってきましたね」
ほっとしたように、ふにゃりとした笑みを浮かべる。
よかった、このままだったらどうしようかと思ったから。
……さて、気を取り直して勉強の続きをしないと。