言の葉、消えて｜リアクション

言の葉、消えて

◆
星ヶ丘のとあるマンション。
斑鳩遙は、ある一室の玄関を静かに開けた。
中へ呼びかける声などなければ、出迎える声も影もない。
それどころか、遙が立てるソレを除けば、物音一つしない。
当たり前だ。
この部屋の主は、もう居ないのだから。
息子の事を一番理解しているのは、親友の自分だと遺族に言われた。
だから、ここの管理は委ねたいと。
まったく、とんだ買い被りだ。

玄関の扉が、少し大きな音を響かせて閉まる。
振動、床のホコリが舞い踊った。

さて。来てみたはいいが、何もすることがない。
探しものがあるわけでもなければ、掃除をするわけでもない。
まして、遺品の整理などをするわけでも。
しかし、ただ突っ立っているだけというのもどうだ。
あてもなく、部屋の中をゆっくりと歩きまわる。
そうしていると浮かぶのは、この部屋の主が居なくなったことへの問い。
小さく頭を振って、掴むように髪を掻いた。
……その問いの答えは、ずっと追いかけている。
今ここで考えたところで、見つかるはずもない。

適当に、手近な所にあった扉を開ける。
目を細めた。
カーテン越しに注ぐ傾いた陽射しが、薄闇の中、部屋の中央に黒い威容を浮かび上がらせる。
部屋の中央に、一台のグランドピアノが鎮座していた。
友人の形見の品である。
立ったままの譜面台には、楽譜が乗せられたまま。
椅子は、少し用があって立ち上がった時のように、軽く引かれたままだ。
吸い寄せられるように歩み寄り、椅子に腰を下ろす。
閉じられた鍵盤蓋の上に、静かに突っ伏した。
額や頬に感じるのは、固く冷たい感触。
それに身を委ねている間に、気付けば微睡んでいた。

そうして、半分寝言のように何事かを呟いた時だ。
自らの言葉が聞こえないことに、気付いた。

また、神魂の影響だろうか。
しかし、そんなことはどうでもよかった。
ただ、この静寂に。
一切の雑音が消えたこの静寂に、永遠に浸っていたいと――そう、思った。
嗚呼、どうせなら。
この心臓の鼓動も消えてくれたなら、完璧なのに。

雑音の絶えた世界で、遙は己の心に向かい合う。
ゆっくりと、溶けるように自らの心の深い部分へと潜り込んでいく。

学説によれば。
人の死後、遺された人間が一番最初に忘却するのは、その人物の声らしい。
顔や体つきは、写真を見れば思い出せる。
趣味嗜好も、部屋や遺品を見ればなんとかなる。
だが、声は。
友人は――時任は、死んだ。
もう戻らない。
ならば。
あいつが、どんな声をしていたか。
どんな声で笑い、怒り、泣き、話していたか。
記憶に依存する、友の声の残滓。
それを手繰り寄せようと、思考の海の中でみっともなく悪足掻く。
そうでもしないと、自分の中からあいつの存在が零れ落ちてしまいそうで。
気付いたら、手の中の砂が全部零れ落ちてしまっているように。
それが嫌だから、あいつの存在を失くしてしまいたくないから。
もがきながら記憶の欠片を紡ぎ、再構成する。

不意に立ち上がった。
その表情に浮かぶのは、決意の色。
窓を開け放ち、夕焼けが眩しいベランダに飛び出す。
言葉が消えた今なら、本音を言える。
恥も外聞も、全てかなぐり捨てて。
殴りつけるようにして、手すりを掴み。
腹の底から、思い切り叫んだ。
生前伝えたかった想い。伝えられずじまいだった、言葉を。

――――――！

開け放した窓から吹き込む風に、楽譜が舞い踊る。
その中で、遙は手摺に縋ってくずおれた。

勝手に死んで。
人を馬鹿にして。
遺された俺の立場を考えたのか。
罪悪感を背負って、独り苦しめと？

「……アホゆうなや」

いつの間にか声という喧騒を取り戻した夕の空に、悪態の呟きが溶けていく。
それがお前の望みだとしても、思い通りにはならない。

絶対に。