夏の奈良、鹿せんべい｜リアクション

夏の奈良、鹿せんべい

●昼の浮見堂

　御巫時子を乗せた人力車は、冬にはホルンで鹿を呼び寄せる「鹿寄せ」も見られる草原、飛火野を左手に見ながら、東大寺南大門から伸びる道を南へ下る。
「ほら、見えてきました。あれが浮見堂ですよ」
　俥夫の青年が身体を傾けてブレーキをかけ、右手へ曲がった。
　濃い桃色の花をつけた百日紅に囲まれた鷺池が現れる。鷺池には細い橋が渡されていて、池の中ほどにある六角形の木造のお堂に続いている。
　僕はこの浮見堂が一番好きですよ、といって車を止めた俥夫が、ここで時子の写真を撮ってくれた。

　――斑鳩遙はひとり浮見堂の手すりに凭れ、水面を渡る風を感じて目を閉じる。
「奈良に帰るのは十一年ぶり、か。変わってないな……」
　恩師の定年祝いを兼ねた高校の同窓会だった。十年ぶりに再会した級友たち。当たり障りのない世間話の合間に夏の盛りの長袖を怪しまれた。曖昧に笑ってシャツの上から左腕を擦る。
　長袖の理由――左腕にある傷の謂れを訊かれるのが面倒だったから。
　大学時代、有名ピアニストであった友人、時任彼方をストーカーから庇った時の古傷。
　話題を変えて躱すつもりが、同じ木天蓼大に進学した者が噂を広めたせいであれこれと詮索された。
「あいつの自殺はニュースになったからな……」
　思わず自嘲ぎみな笑みが漏れる。その友人の自殺の謎を今も追っていると知ったら、彼らは笑うのだろうか。

　同窓会後、地元観光で時間を潰す。元より疎遠な実家には立ち寄らなかったが、高校までは奈良だった。
　地元を離れたのは土地やモノ、人に縛られるのが嫌だったから。
　関東に出て周囲に順応するのはうまく行った。標準語に矯正したせいで、今では余程親密になった人間以外、遙が関西出身だとは知らない。だがこの土地自体が嫌いな訳ではなかった。

「そういえば時任も俺の故郷に来たがっていたな……『お前が育った場所を見たい』と。
　結局叶わなかったが……」
　水面に映る２９歳になった自分。その後ろに立つ彼の影が見えた気がして、はっと振り返る。
　――そんなわけはない。人は死んだら無になるだけだ。
　けれど、心の奥底で思ってしまう。――もしかして傍にいるのか、と。

「本当は大学に残り研究を続けたかったが、安定した収入と堅実な職を選んだ……。
　俺はただ平穏に生きたいだけなのに、あいつがそれを台無しにする……」

　風が吹く。水面が揺れ、遙の姿も彼の幻影も、縒れて千切れて綯い交ぜになる――。