寝子島に台風がやってきた｜リアクション

寝子島に台風がやってきた

【台風通過後：白亜の女王のためだけのピアノコンサート】

　翌朝。
　野郎どもを帰した霧生は、ようやく本題を告げるべく、菜々緒を自宅へ呼び出した。
　居候もこの時ばかりは出払ってもらい、家の中は霧生と菜々緒の２人きり。
「どうぞ女王様」
　霧生は椅子を引き、菜々緒を座らせた。
　そして彼女の前で一礼をすると、ピアノの前に座った。
「２人だけのコンサート。今日は、菜々緒のためだけに演奏するから」
　菜々緒は拍手をして、今や遅しと演奏を待ち焦がれている。
「コンクールより緊張するかも……」
　霧生は乾いた笑いしか出てこない自分を情けなく思った。
　口の中が乾く。心臓が飛び出そう。やばい、手足が震えてるじゃねえか。
　霧生は今まで味わったことのない感情の中、鍵盤の上に指を置く。
（たった１人だけの為に弾くなんて初めてだ）
　菜々緒のために、全力で奏でよう。
　そう強く願った時、自然と体の震えは止まっていた。
「曲は、ベートーベンのピアノソナタ第17番ニ短調『テンペスト』で、良かったか？」
「ええ。でもまさか、台風の後に聞くとは思っていなかったけども」
「だよな。練習したんだぜ、聴いてくれ」
　ピアノの重厚な音の重なりが、朝の部屋の中に充満していく。
　霧生は第一楽章から第三楽章まで全てを演奏していった。
　彼は演奏中、菜々緒のことを考えていた。
（最初の出会いは菜々緒にとっては最悪だったろうな……）
　寝子電スタジアム占拠事件での出会いから、霧生はセブン事件と出会った。
　そして、その結末を見届けた。
（つーか俺は会う度地雷ばっかり踏んじまって……。マジで自分の不器用さが泣けてくる）
　終盤に差し掛かり、今まで以上に感情を込めて演奏する霧生。
（菜々緒、こんな俺のこと、お前はどう想ってくれてるのかな……？　って、何考えてんだ、俺！？）
　動揺して、危うくミスしそうになる。
（変な意味じゃねーし！　純粋に俺がどう想われているのか知りたいだけで……）
　そして最後まで演奏し終わると、立ち上がって菜々緒にお辞儀をした。
　菜々緒は拍手で賛辞の意を示した。
「凄かったわ……。とても気持ちが入ってたわね」
「決まってるだろ。……菜々緒のために弾いたんだから、な」
　恥ずかしくなって顔が赤くなる霧生。
「なぁ、菜々緒。女王であるお前は以前のことあんまり覚えてないかもしれないけどさ……。俺は変わらず大切な存在だと思ってる。出来るなら、これからもお前のこと支えていきたい。いらぬ世話かもしれねぇけど……」
　菜々緒は首を横に振った。
「そんなことないわ。今日一日、みんなと過ごして、改めて私は色んな人に支えられて生きていると知らされた。だから、深雪君の好意に私、甘えていいかしら？」
　はにかむ菜々緒に、深雪は「もちろんだ」と笑顔を返した。
「お前は幸せになれ、菜々緒」
　深雪は、これからの菜々緒の幸せを願い、もう一曲弾く。
　曲は、ドビュッシーで『月の光』。
　暗闇を照らす月のように、菜々緒には光を見てもらいたかったからだ。
　２人だけのコンサートはまだまだ、続く。

このページにイラストを設定する