夜のお散歩｜リアクション

夜のお散歩

　制作に没頭していた旅鴉月詠が手を休めた。ここまでの過程を冷静な眼差しで振り返り、おもむろに伸びをした。その姿で窓辺に歩いてゆく。
「いい夜だ」
　それ以上の言葉は不要とばかりに出掛ける準備を始めた。ノースリーブのワンピースは寒色系で半袖のレースを羽織る。スケッチブックと筆記用具は必需品。念の為に財布を持って出かけることにした。
「夜だからね」
　帽子には手を付けず、白い長髪をなびかせて部屋を出ていった。

　淡い光の中を道なりに下る。微かに漂う薔薇の匂いに月詠は目を細めて、悪くないね、と口にした。月明かりの元で銀色に輝く長い髪を弾ませて歩を進めていく。
　歩きながら額に手を当てた。掌が汗で少し湿っていた。
　その時、道端にひっそりと立つ自動販売機を目にした。自然に立ち止まり、上から順に見ていく。ホットのおしるこに目を留めて微笑んだ。
「需要があるのか？」
　月詠は冷えたコーヒーの缶を手にした。丸みのある柵の上に腰掛けて瞬く星を見ながら喉を潤す。
　足元から小さな鳴き声が聞こえる。視線を下に向けると、足首の辺りに頬を押し付けてくる黒猫がいた。
「こんばんは、いい夜だね」
　黒猫は顔を上げて甘えるように鳴いた。頻りに口元を動かしている。前脚で月詠の履いたパンプスの先の方をトントンと叩いた。
「君には悪いのだが、今日は持ち合わせが」
　飲み掛けの缶を柵の支柱の平たい部分に乗せて、取り敢えずポケットを手で探ってみた。
「君は運がいいね」
　引き抜いた手には煮干しのパックが握られていた。月詠はしゃがんで、一本ずつ黒猫に与えた。カリカリと小気味よい音を立てて口の中に吸い込まれていく。
「こんな鉛筆削りが欲しい」
　全てを平らげた黒猫は満腹を表現するかのように仰向けになった。月詠が腹部を手で撫でると、くすぐったそうに身を捩った。
「またね」
　短く鳴いて黒猫は去っていく。黒い尻尾が手を振るように動いた。
　独りとなった月詠は隣の自動販売機に目を向けた。側面の下の方に少し錆びが窺えた。耳を澄ますと静かで重い音が聞こえる。低い唸り声にも似た音で道を照らしていた。
　少し遠くに目を向けると、信号機が現役で動いていた。ほとんど車の通らない道で愚直に指示を出す。
　視線が横に流れた。電信柱の下に取り付けられた看板が目に付いた。工事現場等でよく見かける看板は誰彼無しに謝る人物が描かれていた。
　月詠はスケッチブックを開いた。寡黙に働く人工物を描き出していく。数種類の鉛筆を駆使して個々に深い陰影を刻んでいった。
　完成した絵には悲しみが宿っていた。月詠は中央の余白に尻尾を立てた黒猫を書き添えた。
　そこにすばるが通り掛かる。棒状のアイスを口に咥えて笑顔を見せた。
「月詠ちゃんの目的は絵かな」
「すばるは虫取りだね。口に咥えているのはアイスなのか」
「そうだよ。でも、どうして？」
　すばるの問いに少し遅れて月詠は言った。
「わかったよ。それはちくわ味のアイスだね」
「普通のソーダ味だけど。ちくわ味のアイス……いいね、それ！」
　すばるは感謝の言葉を口にすると、笑顔で旧市街の方向へと駆け出した。遠くの方から、期待してね、と声がした。月詠は丁寧な口調で、遠慮します、と答えるのであった。
「私も行くか」
　閉じたスケッチブックを小脇に挟んだ。少し考える間を空けて再び絵と向き合う。黒猫の横に擬人化したちくわを描いた。腰の辺りに虫かごを取り付け、手にはアミを持たせた。
　月詠は絵を眺めて最後に労いの言葉を掛けた。
「お疲れ様」
　一夜の出来事を収めたスケッチブックを静かに閉じた。