雨よ、どうか｜リアクション

雨よ、どうか

　雨が降り出せば、人は避けようとする。それはフツウの反応、当たり前の行動。ぱた、ぱた、と落ちてきたものが雨粒かを確かめるように、皆一度は顔を上げて、それから慌てて走りだすもの。今この時、御剣刀の周りを歩いていた人々も一様にそうし始めた。そんな中、手すらかざそうとせず、目を眇め、空を睨んだまま刀の頬は、額は、首元は、何に抗うことなく雨に濡れる。

　つぅ、と顎のラインから首筋に伝う雨のひとしずく。皮膚の上で、刀の高い体温を受けてすぐにぬるい水に変わったそれに、刀は冷えてゆく血のような感触を覚えた。そこから思い出されるものは、そう多くない。瞳はいつの間にか固く閉じられていた。瞼を打つような雨はまるで、刀を責める声なき声のよう。

＿＿俺は、あの時

　思い出してしまえば、赤く、そして黒い感情が刀の胸の内をかき乱す。それは隙あらばこの身を燃やしつくさんと舌を出す焔であり、鉄火場の匂いを纏った血液であり、弱い己の心を不意に袖引く果てない暗闇であった。赤く染まった視界を厭って目をこじ開けてみても、脳裏に焼き付いた記憶はそうやすやすと離れてくれない。
　だが、忘れることなどもっと出来なかった。目をそらそうとしているもの、痛み、後悔、それら全て、全てこの手が招いてしまった結果だと、刀は知ってしまっているから。

＿＿出来ることをやったよ

　確かに、仕方がなかったと言ってもいい状況ではあった。どうしようもなかった、最善を尽くした、そんな風に何度言い聞かせても、刀の魂は納得しようとはしない。今出来ることをするだけでは、先に進めない。壁を越えることなど出来ない。剣術を極めることを志し、鍛錬の日々を選んだ瞬間から分かっていたことだからだ。

　理解が後悔を呼び、それは身体を容赦なく苛む。頭を締め付けるような、鈍く重い痛み。伴う吐き気。膝をついて鳩尾をおさえてみても、何も出てきやしない。

＿＿フツウを願って走っていたはずなのに

　願えば、そして願いを願いのまま形にしようと動けば、手に入ると信じていた。
　刀が願い、想ったのは、共に在るというフツウ。
　どこで道が曲がってしまったのか、分からない。

　あの日のことは、剣を極める……生きる上での目標、それに至るまで積み上げるべき経験のひとつ。そう考えて割り切ることも出来なくて。刀の知っている菜々緒は死んだ、七男もだ。それは覆しようのない残酷な事実。

　嫌だった。
　悔しかった。
　理解こそすれ、納得など出来るわけがなかった。

　だが、あの日から続く今を変えることはもう出来ない。歌劇の幕は既に上がり、刀の思うような筋書きではもう進んでいないのだ。

＿＿わかってる

　己の停滞を、未熟さを、幼さを。
　それらがこの目を曇らせ、見るべきものを見ようとせずに拗ねている理由なのだと。

　弱さを知れたこと、それは僅かでも確かな前進だ。この身を、心を食いつくさんばかりに覆う後悔と自責の念を、今すぐに昇華することは無理だと分かっている。嗚呼、それでも。全て食い返して、いつか必ず己の強さに変えてみせる。

　だから、雨よ。今はどうか。

「（このままもう少しだけ）」

　失い、変わることにまだ怯える刀の心を、世界から遠ざけていて。
　あとほんの少しの間だけ。