寝子島バロック狂騒曲｜リアクション

寝子島バロック狂騒曲

「記憶が……抜けている……？」
　彩斗が繰り返す。彼だけでなく、皆が関心をそそられたようだ。
「ワタシは64歳の時に脳卒中で倒れ、翌年死ぬまで体調がすぐれませんデシタ。記憶がないのは病苦のせいデショウ。でも、もしかするとその時にこの世に未練をのこす事柄があったのかもしれマセン」
「その未練と、どこかの神魂が結びついて、こんなことになった、っていうのか？」
　巴が周囲の考えを代表するかのように言う。

「他に手がかりはないかねぇ……あやと、頼める？」
　陽太は彩斗の方を向く。彩斗は、心得たようにうなずいた。
「例のろっこんだよね……。わかった……やってみる」
「ろっこんを使うのですか？」
　アリーセが問いかける。
「そう……。俺のろっこんは、過去に起こったことを見る能力……」
　彩斗は目を閉じ、念仏を唱え始めた。
「……南無妙法蓮華経……」
　しばらくそのままの状態だったが、彩斗はやがてつぶやいた。
「見えた……」
「どんな感じだった？」
　陽太の問いに、彩斗は目を開けて答える。
「肖像画全体が一瞬光って、バッハさんが出てきた……。教室には誰もいなかった……。でも、気になるのは……バッハさんが出てきた瞬間、音楽準備室から光がもれてた……」
　音楽室の前方のドアから入れる小部屋が、音楽準備室だ。弥生先生が言う。
「本来準備室には生徒は入れませんが、今回は許可しましょう。榊くん、来てください」

　数分後、弥生先生と彩斗は音楽準備室から出てきた。
「何か見えた？」
　皆の問いに、彩斗は答える。
「楽譜が並んでいる棚の、バッハの作品の箇所がなぜか白く光って、その瞬間にバッハさんが出てきたみたい……でも、細かい作品名までは見えなかった……」
「でも、収穫ですよ。たぶん、今回の件は何らかのバッハさんの作品と関係あるんです」
　修が言った。しかし、バッハの表情は晴れない。
「ワタシの作品、デスカ……でも、自分で言うのもなんですが、ワタシ、相当数の作品書いてマスヨ？ワタシ自身も把握していません」
「後世の学者が作品を整理してまとめたのですが、作品番号にして1000以上になると聞いています」
「1000以上！？そこから心当たりを探すんですかぁ？」
　弥生先生の補足に、凛が目を丸くして仰天した。
　バッハの作品から手がかりを探す、というだけでも大変な作業になりそうだ―――皆が黙りこくってしまったその時だった。
「立ち止まっていても仕方がありません。バッハ様に思いつく限り曲を聴いてもらって、ときにはバッハ様自身にも演奏してもらって、皆で音楽を楽しみましょう。そうすれば、そのうちバッハ様の記憶も戻るのではないでしょうか？」
　沈黙を破ったのはエリューシアだった。手には愛用のヴァイオリンが抱えられている。
「それがいいかもしれマセン。音楽は、ワタシのすべてでしたから」
　しとやかなエリューシアから飛び出した力強い言葉に、バッハは勇気づけられたようだった。