寝子島高校にも、夕闇が迫り始めていた。
「よりによって、こんなときに忘れ物するなんて……いやになっちゃう」
串田 美弥子は、北校舎の廊下をひとりで歩いていた。寝子島高校は夏休みでも、部活や補習などで日中は元気な生徒たちで活気づいている。だが、今は下校時間も過ぎ、ほとんど人の気配はない。
美弥子の目的地は、三階の音楽室だ。音楽の課題の楽譜を忘れてきてしまい、先生に事情を説明して校舎に入れてもらったのだった。
暗くなりかかった校内は、お世辞にも気味のいいものとは言えない。さっさと用事を済ませて帰ろう、と美弥子は思った。
その時―――彼女の耳がかすかな音をとらえた。音楽室の方向から、ピアノの音が聞こえてくる。
「こんな時間に……誰?」
不審に思いながらも、美弥子は音楽室に近づいていった。何者かがピアノを弾いている。曲名は知らないが、聞いたことのあるクラシックの曲だ。美しく気品があり、どこか知性を感じさせる魅力的な音楽―――なんて曲だっけ? それにしても、こんな時間に誰がピアノなんか弾いてるんだろう?
美弥子は音楽室のドアを少しだけ開け、中をのぞいた。ピアノに向かう「誰か」のシルエットと髪型を確認した時、彼女は声にならない声を上げ、腰を抜かした―――同時に、流れている曲の作曲者も思い出す。
美弥子に気づいたその人物は、ピアノを弾くのをやめ、立ち上がる。
「こ、来ないで……」
だが、その人物がこちらに向かって発した言葉は、彼女にとっては意外なものだった。
「助けてクダサイ、お嬢さん……」
※
「なんですって?」
美弥子の言葉に、
樋口 弥生先生は耳を疑った。だが、目の前で息を切らしている美弥子が、自分をからかっているとは思えなかった。
「本当なんです、先生! 彼は確かに、音楽室にいます」
「信じられないわ……何かの勘違いでは?」
「いや、あの髪型は間違いありません、間違えるはずがありません!」
ここで美弥子は息継ぎをした。
「バッハです―――音楽室の肖像画から、バッハが抜け出してしまったんです! 」
半信半疑で音楽室に向かった弥生先生だったが―――
「その髪型は―――間違いないようですね」
「信じてくれて、よかったデス。ワタシ、これからどうすればいいんデショウ……」
髪型以外にも、恰幅のよい体型や昔のヨーロッパ風の服装はバッハそのものだった。弥生先生も信じざるを得なかった。
「日本語がお上手ですね。ドイツの方だったと思いますが」
「毎日、あそこで授業を聞いていたので、覚えてしまいマシタ」
バッハが指さした先は、音楽家たちの肖像画が並んでいる壁だった。左端の、バッハの肖像だけが空白になっている。
「どうして、バッハのおじさんは絵から抜け出ちゃったの?」
「ワカリマセン。気づいたらこの部屋にいマシタ。動揺をしずめようとピアノを弾いてたら、アナタが現れて……」
「う~ん、神魂が影響してこんなことになったのかしら」
美弥子は腕組みをして考えるが、いい考えは出てこない。弥生先生が口を開いた。
「確か寝子島高校の七不思議の一つに、バッハの肖像の目が動く、というのがありましたが……」
「目が動くどころの騒ぎじゃないですね、これ」
「うーん……これは、腰を据えて考える必要がありそうですね。大丈夫、皆で協力して知恵を出し合えば、きっと解決するはずです」
なんと、音楽室の肖像からバッハが実体化し、抜け出してしまいました。神魂の影響でしょうか。
バッハは1685年ドイツの生まれで、彼の知識や価値観も昔のヨーロッパのものです。いくら寝子島高校の音楽室の授業風景をずっと見ていたからといって、現代日本の生活は知らないことも多いでしょう。
今のバッハには帰る家もありません。言葉はなんとかなりますが、年配のバッハに、現代日本に適応する能力があるかどうか。元に戻る方法を早く考えないといけません。
舞台は高校に限る必要性は全くありません。
皆さん、知恵を絞って、かわいそうなバッハのおじさんに手を貸してあげてください!
皆さんのご参加、お待ちしております。