雨の日と月曜日は｜リアクション

雨の日と月曜日は

　スーパーマーケットを出た瞬間、頬にひとしずく、冷たいものが落ちた。
　それが合図だったかのように、空が一気に崩れ落ちる。あっという間に、綾辻綾花の世界は雨で満たされた。
　目に映るものすべてが、濡れた膜の向こう側にある。
　耳にはアスファルトを叩く音が、乱れたタイプライターのようなリズムで鳴り響く。
　肩や腕を伝って流れこむ水が、服の内側にまで入り込む。冷たさが、皮膚の感覚をゆっくりと奪っていく。
　息を吸うと、湿った空気が肺の奥まで降りてきた。街の埃も、花の匂いも、すべて洗い流されたあとの、透明な匂いだ。
　唇に触れる雨粒は、わずかに金属の味がして、舌の上で溶けていく。
　五感のすべてが雨に包まれていた。見ても、聞いても、ふれても、味わっても、嗅いでも……ただ、雨だけの世界。
　綾花は早川珪のマンションへと急いだ。
　腕の中のエコバッグだけは濡らさないように、ぎゅっと抱えたまま。
　傘は持っていなかった。朝に見た天気予報では、『今日は一日曇り』と言っていたのだ。
　こんなことなら、いつも鞄に折り畳み傘を入れておけばよかったな──。
　悔やんだところで仕方がない。急ごう。
　エントランスにたどり着いたときにはもう、肩から背までぐっしょり濡れていた。
　照明の下で息を整える。落ち着いてから、エレベーターの鏡に映る自分の姿を見て、綾花は思わずため息を洩らした。どう取り繕っても濡れ鼠だったから。雨を浴びたというよりは、川にでも落ちたかの様相だ。
　雨に濡れた服が張りついて、みっともなく見える。
　インターフォンを押すと、間もなく珪が出てきた。
　相変わらず整った顔をしている。外の大雨が似つかわしくないほど落ち着いていた。
　雨をしたたらせる綾花を見ても、珪は動じることはない。ただ片眉をあげて、「大変だったね。上がって」と告げるとタオルを手に戻ってきた。足元にはマットも敷いてくれる。
「今日はすごい雨でしたね。珪さんは大丈夫ですか？」
「僕は、運良くというか、帰宅するまで降られずにすんだよ」
　でもびっくりしたね、と言いながら、かぶせたタオルで綾花の頭をふいてくれる。
「あ、あの、自分でやりますから」
「いいから、任せて」
　それと、と珪は大ぶりのバスタオルを肩からかけてくれた。「隠したほうがいい」
　あえて言わない様子だが、濡れたブラウスが肌に貼りついて透けて、体のラインがくっきり見えていることを指しているのだろう。
　抱きかかえていたエコバッグを思い出し、綾花はこれを差し出した。
「買ってきたもの、ちゃんと守りました」
　実際、奇跡的なほど濡れていないのだった。それが自然に、綾花の胸元を守る結果にもなっていた。
「えらいね」
　淡々とした声。けれど、そこに少しだけ笑みの色が混じっている。
　彼のそんな微笑が、綾花は好きだ。
　もう教師と生徒の関係じゃないのに、褒められるとやっぱり、心が安らぐ。
　しかし間もなく、
「くしゅん！」
　不意にくしゃみが出た。いくら六月でも、濡れた服のままでは体が冷える。
　その瞬間を待っていたかのように、壁の給湯スイッチから電子音が鳴った。「お風呂が沸きました」という合成音声が、部屋の静けさを横切る。
「今日は来る約束だったから、万が一を思って沸かしておいたんだ」
　まるで筋書き通りとでも言うかのように、珪は浴室のカーテンを引いた。ふわっと温かい湯気があふれる。
「入って。風邪を引いてはいけない」
「えっ……いいんですか、珪さん」
「もちろんだよ。綾花さんのために用意したんだから」
　押さえた口調ながら「綾花さんのために」という言葉に愛情を感じる。
「ありがとうございます。……じゃあ、お言葉に甘えて」
　カーテンが引かれる。珪の足音が遠のいていった。
　引き戸を開けた瞬間、白い湯気がゆるやかに流れ出した。