雨の日と月曜日は｜リアクション

雨の日と月曜日は

　わずか数分ながら、マッサージは目に見えて効果があった。尚輝の腕の感触があきらかに変わっている。
「なんだか腕が軽くなりました。ありがとうございました」
　尚輝の声も明るい。肩を大きく回すとぺこりと一礼して「では僕はこれで」と立ち去った。
　でも尚輝の後ろ姿はすこし、よろよろしている。
「あれ？　利かなかったのかな」
　と言う柚春に、ウォルターは声を上げて笑った。
「足が痺れてるんだと思うよ。五十嵐先生、ずっと正座だったからねぇ」
　ああそうか、と柚春も笑ってしまった。
「マッサージ、ワットもやる？」
　もう第三者はいないので、『ワット』呼びに戻っている。
「いやぁ、僕はそんなに凝ってないからねぇ」
　ウォルター軽い調子で言いながら、「思いっきりやられても困るし」と首をさすった。
　……読まれてた？
　ワットが「うん、お願いするよ」なんて言ってきたら、力いっぱいツボを押そうと心に誓っていたのだ。
　でも本音は言わないでおく。ワットのことだから、きっと言葉の上でかわしてしまうだけだろう。
　それが悔しいような、でも、気持ちが通じているとわかって誇らしいような。

　元の服に着替えて館内を抜けると、外の空気が少しひんやりしている。
　空は澄んでいる。ついさっきまで、あんなに酷い雨が降っていたなんて信じられないくらいだ。
　自動ドアをくぐった瞬間、柚春は息をのんだ。
　足もとに、鏡みたいな大きな水たまりができていたから。かなりの雨量だったのだろう。街灯の光を映して、揺れるたびに銀色にきらめいている。
「すごい……」
　柚春は小さくつぶやいて、空を見上げた。
　灰色の雲の切れ間から光が差している。
　虹は──まだ、ない。けれど、空気の端に淡い色が滲んでいくのが見えた。きっと、あと少しで現れると思う。
「雨、やんでよかったねぇ」
　彼の手には折り畳み傘が握られたままだった。降る前に来たとのことだ。
「うん。でも……」
　柚春は少し間をおいて、「まだ帰るには、ちょっと早い気がする」とつづけた。
　ウォルターは横を向いて、軽く眉を上げた。
「寄り道でもしようか」
「うん。……どこか、行きたいところある？」
「そうだなぁ。僕は別に、どこでもいいけど」
　まるでお決まりのやり取りのように、穏やかに返す。
　柚春は唇を噛んだ。
　“どこでもいい”──それは、彼の常套句だ。
　いつも受け入れる側にまわるくせに、決して自分からは踏み込まない。
　そんなところが、たまに寂しくなる。
　でも、嫌いじゃない。むしろ、その曖昧さがワットらしいと思う。
「じゃあ……歩こうよ」
「いいねぇ。雨上がりの街って、好きなんだ」
　ふたりは並んで歩き出した。
　アスファルトにはまだ水の膜が残っている。日ざしを、濡れた路面が照り返した。
「ねぇ、ワット」
「ん？」
「ワットって、さっき五十嵐先生といるとき、すごく楽しそうだった」
「そう見えた？」
「うん」
「まぁ、彼と話してると退屈しないからねぇ」
　ワットは笑った。目の奥がどこか遠くを見ているようで、柚春は胸の奥がちくりとした。
　──たぶん、本当に楽しいんだ。
　それでもいい。わかってる。ワットが完全に誰かを拒むような人じゃないって、ちゃんと知ってる。
　それでも、少しだけ心の奥がざわめいた。
　自分はいま、何番目にいるんだろう──ちゃんと、ワットのなかでトップを占めているのだろうか。ご両親よりも、メアリーさんよりも。そんな考えが、一瞬だけよぎった。
　けれどその不安を打ち消すように、彼の言葉が思い出された。
　すきだよ。大切にしたい。
　ちゃんと未来のことも考えてる。
　あのときの声は、本物だったと思う。
　ワットが冗談を言うときの軽い響きじゃなくって、たしかに胸に残る重みがあった。
　いまはまだ、僕は彼の生徒……。
　けどここは寝子島高校の敷地じゃない。学校の時間はとっくに終わっている。
　切なさ、勇気とが混ざり合う。
　柚春は、すれ違う車のライトを受けながら、そっと踵を上げた。
　そして──彼の頬に、思いを届けた。
　ウォルターは驚いたように柚春を見た。
　けれど拒む気配はなく、「不意打ちだね」と目を細めた。
　柚春は小さく笑う。
「ね、ワット。デートはこれからだよ」
「そうだねぇ。それじゃ、行こうか」
　いつの間にか、手はつながれている。

　もう夕暮れといっていい時間帯。
　でも六月の日は長い。散歩するには十分なほど。
　デートはまだまだ始まったところだ。
　ふたりの足音が、雨上がりの街で軽やかに重なり合った。

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