【ストーリークエスト『時の波濤』（８）】

　思い切り息を吹き込むと風船が内圧に抗しきれず、弾け飛ぶがごとくだった。空間の中心をなした存在を打倒した瞬間、勢いを増した時の波濤が荒れ狂い、大渦と化して膨張したのだ。時球域は粉砕され、燐光とともに消滅し、アヤカの見上げた空は青く澄み渡っていた。まるで台風一過だ。
「終わった……んでしょうか」
「うん、そのようだ。やれやれ、なんとかなったね」
　思いのほかケイの声が間近に聞かれて、アヤカは驚いた。それもそのはず、アヤカは衝撃から彼女を守ろうとしたか、ケイの腕にすっぽりと抱きすくめられていたもので。またたく間に頬は林檎のように赤みを帯びた。
　大任を果たした冒険者らがひとつ息をつくと、波濤に時を絡めとられ停滞していた人影が次々に解放され、動き出す。たがいの無事を喜ぶもの。犠牲となった誰かを悼むもの。父母を呼び泣く子をロサヴィアが保護し、瑠璃と真珠をともない両親を探し始めた。そこへアオイと仲間たちが合流し、大捜索網が展開される。
「大丈夫よ、心配しないで。きっとすぐに見つけてあげるわ」
「うーん。ロサヴィアさんってほんと、お姉ちゃんみたいだなあ……」
　彼女らには笑顔が満ち、子も泣き止むと少しばかり頬をほころばせた。きっとすぐに父母と再会できるだろう。
「アヤカ、エイジ、それにみなも、無事だったかね！」
　息を切らしてマオメイが駆けてくると、安堵の表情を浮かべた。荒事は任せきり、運動不足は相変わらずのようだ。エイジが苦笑いして、
「マオメイさん。時球域の中で、いろんなものを見たよ。水の獣とか、水鏡戦争？　の様子とか……ネクタール実験場にいるはずの機械のモンスターとか」
「ほう、ほう？　それはそれは興味深い！　あとでじっくりと話を聞かせておくれ。とはいえ、今はさておきだ」
　マオメイがずかずかと歩み寄ったのは、今回のクエストの要となった人形姫。サイディア王立魔法アカデミー、その学長たるアンペリアだった。
「これはこれは。久しいね、アンペリア学長どの！　時球域に単身、頭から突っ込んで迷子になっては部下やら冒険者やらを振り回すとは。いやいや、あなたらしい壮大なスケールには頭が下がるよ。さすが、人の身を捨ててオートマタの義骸へと入り、とこしえを生きるお人形さんだけはある」
「うん？　ああ、覚えている。覚えているとも、娘。たしか……ニャオレイ。ザオベイ？　シャオレン？　わかった。ヤオペイ」
「マオメイだ！！　相変わらず人の名前を覚えないなあなたは！」
　……あまり仲は良くないのかもしれない。そういえばマオメイはアカデミーの重鎮たちを、市井の研究者を見下していて癇に障るなどとこぼしていた。
　マオメイはひとことふたこと学長を会話をかわすと、アヤカとエイジに声をかけ、彼らを連れて立ち去っていった。彼らが時球域の内部で見たものを、仔細に聞きだすためだろう。
　こほん、と控えめなせき払いで注意を引いたのは、ソフィア。隣にはシフォンの姿もある。
「学長。クエスト完了の宣言を……冒険者たちは、あなたを救助するために危険な時球域へ踏み入ったのですから。もっとも、その必要はなかったのかもしれませんけれど……」
「ふむ」
　人形は表情ひとつ変えずにぐるりとあたりを見回し、なにやら思案した後、かぱ、と口を開いた。
「冒険者諸君。世話をかけた。謝罪と礼を述べよう。すまなかった、そしてありがとう」
　そうしてぺこりと頭を下げる。いささか読めない人柄ながら、率直なたちではあるらしい。
「こたびはひとつの時球域を晴らすことに成功したが、時の波濤はその影響圏を広げつつある。いずれは新たな時球域も生まれよう。手をこまねいていては、リキッド大陸の時の流れは凍り付いてしまう。さながら氷河時代のように。ついてはこれより、波濤の発生源を突き、元を断つこととする」
「……うん？　待ってくれ、学長。その物言いは、時の波濤を生み出す元凶を、あなたは知っていると？」
　マオメイの問いに、強くうなずく。
「ああ。こたびのクエストにおいて、それを確信した。そこで、冒険者諸君」
　ふたたびぐるり見回すと、たがいちがいの色をした瞳をぱちりと瞬いて、アンペリアは告げたのだった。
「これよりは私がクエストを発する。時球域を晴らし時の波濤を押し返さんがため、諸君らの力を貸してもらいたい」



　すべてがことごとくに動き出した。時の停滞を許さず、屈さず、前に進み続ける。それは人の意思であり性、あるいは本能とも呼べるものかもしれない。
　ブドーもまた、足を止めはしない。道の先を見つめて歩み続けるのみだ。
「エットー。アンペリア学長！」
　ゆえに彼は、問うた。
「少しだけ、ちょっとだけ！　お話したいことが。レクサ……この子について、聞きたいことがあるんです」
「ふむ。見た顔だ、冒険者」
　学長は後処理をソフィアやシフォンにまかせ、どこかぼんやりとして風の中にたたずんでいた。
「サイディア王室より触れが出ていた。大っぴらには出回らぬ類のものだ。王宮騎士あたりがお前を尋ねたのではないか」
「あー」
　心当たりは大いにある。あの騎士にはその後何度か追いかけられたが、今のところどうにか逃げおおせている。
　それはともかく、たずねるべきはレクサ。宝石のような瞳で見上げる、王宮騎士のいわく『世に災いをもたらすホムンクルス』についてだ。
「それの出自について、私もことさら詳しくはない」
　ブドーの説明や見解を聞くに、アンペリアはかぶりを振りつつ答えた。
「だがひとつ述べるならば、心すべきだ。お前はヴィルカスといずれふたたび相対し、決着をつけることになるだろう」
「ヴィルカスさんのこと、知ってるんですか？」
「あれはかつてアカデミーに籍を置いていた。ごく短い期間に過ぎない、しかし記憶に残る生徒だった。嘘の巧みな、信用のならぬ男だったが、情にはあつく慕う者は多かったようだ」
　旅のさなかに出くわした、あの錬金術師のとぼけたような笑みを思い出す。あの温厚な瞳の奥には、なにか含む企みでもあったのだろうか。
「世に災いをもたらす。か」
「……俺が、そうはさせないつもりです」
「ああ。私に断ずることができるものはない。そのホムンクルスがそうではないと断じてやることも。だから私は、冒険者の意思を信じよう。アカデミーはこの件に関わらぬこととする」
　サイディア王室よりの触れに従い、ブドーを捕縛することもできようが、どうやら当面そのつもりはないらしい。
　言うだけ言うと語ることもなく沈黙したアンペリア学長に、ブドーは一礼し、背を向け立ち去った。



　時球域の主が討たれ、空が晴れゆく、その直前のことだ。
「……セイリオス……？」
　波濤の向こうへ歩もうとする英傑の背にかけられたポラリスの声が、やはり凛風をざわつかせた。かなたとこなた、時の流れは異なる。彼はもはや、今この時を生きてはいないというのに。
「さて、ひとまずは帰るとしよう。同胞らとこの先について語らねばな。さあ行こう」
「英傑にポラリスを渡しはしないよ。セイリオス」
　ぐいと肩を抱き寄せられ、ポラリスの瞳は凛風とセイリオスの間を揺れ動き、惑った。
　孤高の狼面はにやりと笑み、乱杭歯を見せつけ言った。
「戦はまだまだ続く。凛風、お前を見極める時はいくらでもあろう。我らが娘にふさわしき者かどうか、じっくりとな。さあ、行こう。帰ろう。あたたかなスープとたっぷりの肉が、我らの胃袋に収まりたくて、湯気をくゆらせ待っている……」
　大きな後ろ姿は時の向こうへ、揺らぎながらやがて失せた。それっきりだった。



　時は流れゆく。定められた自然の摂理であり不可逆だ。なればこそ人はあがき、苦しみ、もだえながらも地を歩む。いかなることがあろうとも先へ進まねばならない、曲がることのない残酷な、清廉な掟だ。
　しかし、時を遡上せんとする歪な因果がいまや、リキッド大陸のすべてを覆い尽くそうとしている。
「……茶が冷めてしまったな」
　黄昏の黄金を見つめながら、アンペリアはひとりつぶやく。
　人形が見据えるのは過去か。未来か。はたまた、己が内にくすぶる罪か。