Tomorrow never knows｜リアクション

Tomorrow never knows

　六月のある日、やはり週末のレッスンでのことだ。
　鏡の前で各自ストレッチをしていた出演者たちに、演出家のユカ・オオツキが手を叩いて注目を集める。
「みんな、今日は特別なお知らせがあります」
　声のトーンがわずかに上がる。その場にいた誰もが、一瞬で背筋を伸ばした。
「今度の舞台に、スペシャルゲストが合流することになったの。今日から一緒に稽古してもらいます」
　ざわ、と空気が動いた。
　互いに顔を見合わせる。誰だろう、と。名前が告げられる前から、智依子の心臓は早鐘を打っていた。
　まさか。
　予感があった。
　そして、その予感は的中した。
　スタジオの扉が静かに開く。
　差し込む午後の光を背にして、彼女は現れた。
　姜美玲──ステージネーム、Milly（ミリィ）。
　気品のある美貌に、クールな眼差し。立っているだけで空気を制する存在感がある。『しなやか』という言葉をそのまま体現した女王然とした姿だ。ホワイトカラーに染めた髪は、光を受けて燦然と輝き、頭の先から爪先まで完璧な立ち姿勢。周囲の空気を柔らかく包むオーラもあり、威圧的でありながら、近寄りたくなる不思議な魅力を放っていた。
　もちろんMillyのことを知っている者ばかりだ。どよめくのも無理はない。海外のステージ映像でしか目にしたことのない有名人が、別次元の存在と思っていた人が、いま目の前、決して広くないスタジオに立っている。
　智依子は、呆然と立ち尽くしていた。
　あなたに、また逢えるような気がしていた。
　先日、高橋トレーナーから名前を聞いたときから……ずっと。
「ママ、あのお姉ちゃんだれ？」
　隣で楓が小声で尋ねる。好奇心いっぱいに目を輝かせて。
　答えようとしたそのとき、Millyの視線がまっすぐこちらに突き刺さった。一瞬の沈黙のあと、彼女は──ふいに、花が咲くような笑みを浮かべたのだ。
「ChiCo──！」
　呼びかけと同時に、信じられない速さで駆け出してきた。
「会いたかったよー！」
　そしていきなり、全力で抱きしめられる。
　あまりのことに、智依子の頭は真っ白になった。
　全身を包む熱気と香水のほのかな甘さ、そして彼女の腕の力強さ。世界を舞台に活躍している事実を物語るようなエネルギーが直に伝わってくる。
　でも、その抱擁にはどこか安心感もあった。彼女の笑顔には敵意も緊張もなく、ただ純粋な喜びだけがあったのだから。
「ちょ、ちょっと……！」
　必死に言葉を探すが、声が裏返ってしまう。スタジオの空気が色めき立つのがわかった。
　楓がぽかんと口を開け、その抱擁を見上げていた。
「ママ、この人だれ？」
　その声に、Millyはぱっと智依子から身体を離し、くるりとしゃがみこんで楓と目線を合わせた。
　クールな美貌が一転して、にっこりと無邪気な笑顔になる。
「えっ、ChiCoがもうひとりいる！」
　大げさなまでに目を見開き、両手をぱちんと打ち合わせる。そのはしゃぎぶりに、楓もつられて笑い声をあげた。
「そうそう！　ダブルChiCoだよ！」
「ダブルChiCo！　これはすごいことだよ！」
　女王の風格を持ちながら、こういうときは子どものように天真爛漫、それが彼女のキャラクターだった。
　Millyは即座にかがみこんで、楓の両手をとり、軽く回して礼をする。その仕草は舞台上のプリンセスを扱うように丁寧で優雅だ。
　智依子は、その光景を見て、Millyの魅力に改めて胸を打たれた。強さと優しさ、威厳と無邪気さを同時に備えた女性──彼女がなぜ世界中で愛されるのか、今なら少し理解できる気がした。
「わあ……！」
　楓の頬が赤くなる。その光景を見ているだけで、智依子の胸は不思議な温かさと、ほんの少しの居心地の悪さでいっぱいになる。
　スタジオの片隅で腕を組んでいたユカが、笑みを浮かべてつぶやいた。
「いい舞台になりそうね」

　智依子は、胸にうずまく感情を押さえつつ、Millyと楓の無邪気なやり取りを見つめていた。
　憧れ、焦り、喜び、そして少しの不安……そのすべてが入り混じっている。
「そうそう。舞台の正式名が決定しました。昨日までの仮タイトルは取り下げ、これが本決定です。先に発表しておきます」
　ユカ・オオツキは、言ったのである。
「タイトルは、『Tomorrow never knows』」
　明日のことはわからない──。
　智依子はつぶやいた。
　いまの私に向けたタイトルのような気がする。
　けれど、ひとつだけ、確かなことがある。
　この夏、自分たちを待つのは、きっとかつてないほど熱い日々だということだ。

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Tomorrow never knows

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