Tomorrow never knows｜リアクション

Tomorrow never knows

　その日の稽古後。
　汗を拭っていた智依子は、楓の姿を探した。娘はスタジオの隅で、ユカ・オオツキや数人の子役キャストたちと談笑している。振付の細部をユカが身振りで解説し、楓が真剣な顔でうなずいているのが見える。

　楓はどちらかといえば引っ込み思案で、小学校でも決まった子としかの話さないと聞いている。なのにこうして小さな輪の中に溶け込んでいるのは、演者としてのパフォーマンスの延長なのか、ユカの導きが巧みだからか。いずれにせよ心なごむ光景で、智依子が安堵したことは事実だ。
　そのとき、すぐそばから声がした。
「……自分のキャリアの中で、こんなにすごい才能を見たのは、過去にふたりだけ。ひとりはChiCo、あなたのことです」
　低く抑えられた調子。トレーナー高橋恵子の言葉だった。
　智依子の胸が、どん、と強く鳴る。
　楓の耳に入らぬよう、あえてこのタイミングを選んだのだと直感した。彼女──「鬼コーチ」と呼ばれる厳格な人が、わざわざ隙をみて告げた評価、その重みを、智依子は痛いほどに感じていた。
　高橋恵子は、黒髪を高い位置でまとめ、汗に濡れても崩れぬ背筋を保っている。かつてダンサーとして鳴らしたというが、表舞台では大成せず、かわりに指導者として数多くのダンサーを育て上げた。そのシャープな目元と、リップを塗らずとも赤い唇が印象的で、教え子たちからは恐れられつつも、尊敬を集める存在でもあった。名伯楽と賞されることもある。
　ChiCo時代から、智依子は彼女のことをよく知っている。恵子はすでに伝説的な存在だった。尊敬もしていた。しかし智依子が彼女の直接指導を受けたことは、これまでほとんどなかった。当時の智依子はは別の男性トレーナー──楓の遺伝上の父親──の門下にいたからだ。
　近年、あまり恵子の名を耳にすることはなくなったが、それだけに、今回のミュージカルに彼女がトレーナーとして関わっていると知ったとき、胸の奥で密かに喜びを噛みしめたほどだ。
　その人からいま、真正面に評価を受けている。
　恵子のいう「ふたり」に自分が含まれていることは、素直に感謝して受け止めた。だが、
「だとすれば、もうひとりは？」
　問いかけながら、記憶の奥から名前が浮かんでくる。
　答えは恵子から聞く前からわかっていた。
　姜美玲（カン・ミリョン）、ステージネームはMilly（ミリィ）。
　韓国出身。自分と同い年で、何度もステージの上で鎬を削り合ったライバルだ。互いのダンスに火花を散らしながら、夜が更けるまで夢を語り合った親友でもある。
　美玲はいま、世界的に名の知られたダンスユニットの中心メンバーとして活躍している。
　Millyはもう、手を伸ばしても届かないほど遠くへ行ってしまった存在。
　やはり間違いはなかった。恵子の評価は、楓がChiCo、Millyと肩を並べる資質を持つ、ということだった。
　智依子は、額から落ちる汗をぬぐいながら、胸の奥に震えを覚えた。
　ずっと忘れていた。Millyのこと。
　かつては同じ場所にいたのに、いまはずっと、高い場所に行ってしまった彼女のことを。
　妬み？　たぶんそうじゃない。
　ただ、あまりに境遇が離れてしまった、そう感じていたから。