行方知れずの夜｜リアクション

行方知れずの夜

　週末の夜、繁華街へ向かう電車は混んでいる。
　開いた扉から流れ込む風の冷たさに、車内に満ちていた人いきれを実感した。安堵に似た息を吐いてホームに降りても、街へ向かう人の多さはそう変わらない。
　ホームに寄せる風にコートの裾が揺れる。ポケットに手を突っ込もうとして、
　――お行儀が悪いですよ、ウォルターさま
　ふと耳を過ったメイドの声にちらりと苦笑いを零す。家に長く勤めてくれている彼女は、未だに時折己を幼い子ども扱いする。
　今日も夜中に出掛けようとする三十路男を玄関口で捕まえ、
　――今晩は冷えます。マフラーを
　暖かくして出かけなさいと釘を刺してきた。
(夜遊びを止めないだけマシ、かなぁ)
　電車内の人の多さに辟易して外していたマフラーを軽く巻きなおす。
　週末の夜へ向かう人々と共に改札を抜け、賑わう街に立つ。
　駅ビルのショウウィンドウを飾る次の季節の装いを横目に向かうのは、待ち合わせ場所に定めたキャットロード東側。
(いた)
　駅ビルの照明や街灯で明々と照らし出された横断歩道を渡ってすぐ、立ち並ぶ商店の間に途方に暮れたように立ち尽くす青年を見つけた。
　背丈は数センチほどしか変わらないはずなのにどこか線が細く見えるのは、纏う雰囲気のためだろうか。
　いつだって眠たそうな翠色した猫目は今日もやっぱり、こんなときであってもどこか眠たそうに見える。
　人波を見るともなしに眺めていたその瞳が、不意に、ふと真っ直ぐに、こちらを向いた。
　夜の街燈の光に溢れ返る人込みに、色を失って見えた青年の頬にふわり、花咲くように紅の色が上る。
　雑踏に満ちた視界の中、ウォルターさん、と彼の唇が動くのをはっきりと見た。
　ほんの僅か、彼に見惚れた気がして瞬く。たとえば母猫を慕う子猫のように、ヒーローを見つけた少年のように、一目散に駆け寄って来る彼に小さく手を振る。
「七瀬」
「ウォルターさん！」
　駆け寄って来たかと思えば、数歩手前で急停止する。何かと思えば、
「こんな時間に呼び出して申し訳ないです」
　律儀に深く頭を下げる。
　目の前でぺこりと下がって、そのまま上がらない頭のてっぺんを、
「……つむじだねぇ」
　ウォルターは人差し指でぐいと押す。
　わ、と素っ頓狂な声を上げ、七瀬は頭を両手で抑えて顔を上げた。くるりと丸い猫目がぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「本を読んで待っているかと思った」
　活字中毒の七瀬に笑いかける。本を読んでいる間は少なからず時間を忘れられるだろうからとそんなに急がず電車に乗ったけれど、
「今日は持ってくるの禁止だと言われてしまって」
　そういうことを言えてしまう者と居たのなら、もっと急いで来れば良かった。
「どこへ行こうか」
　びっくりしたままの翠の眼を覗き込んで問えば、七瀬は肩の力を抜くように小さな息を零した。
「どこ行きましょうか？」
　顔を見合わせる。
「どこでもいい？」
「どこでもいいです」
　ウォルターさんと一緒なら、と心の中に付け足しているのが読み取れる気がして、どういう顔をしていいのか分からなくなった。
(ねぇ七瀬、僕は)
　そんなにまっすぐな好意を向けられていい人間じゃないのに。
「ウォルターさん？」
　変わらずまっすぐに見つめて来る元生徒にいつもと変わらぬ微笑みを向ける。
　まっすぐに見つめ返した青年の上気した頬が、むき出しの首筋が、夜風に冷えているようにも見えて、思わず首に巻いていたマフラーを外す。ぐるりと首に巻き付けてやれば、少しは罪悪感が紛れる気がした。
(罪悪感？)
　違う、と思う。これは、
(贖罪ではないのか)
　傲慢にも彼を救えると思ってしまったことに対する、せめてもの。
　息を詰まらせようとする己の己に対する疑念を振り払う。
　不意に巻きつけられたマフラーに手を掛け、返すべきかそのままにしているべきか挙動不審になっている七瀬に向け、もう一度笑う。
「じゃあ、行こうかぁ」

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