WONDERFUL OPPORTUNITY！｜リアクション

WONDERFUL OPPORTUNITY！

「行こうよ」
　智依子に呼びかけるとたたっと楓は駆けだして、海浜公園の緑の芝を踏んだ。
　本格的な行楽シーズンはあと少し先、広大な敷地はそれほど混んでいない。犬の散歩をしている老人、フリスビーで遊んでいる中学生らしきグループ、自転車の練習をしている親子などがちらほらある程度だ。
　海風が吹いていたが、暖かい風であり寒いとまでは感じなかった。練習にはちょうどいいコンディションといえようか。
　平らな一角に母子は陣取った。
「はじめようよ」
「じゃあストレッチから」
　ショートパンツとTシャツ姿になり、念入りに柔軟体操を行った。智依子はもちろん楓も体はやわらかく、一般人なら音を上げそうなところまでしっかりと伸びている。
　武道家は上級者ほどストレッチに時間をかけるという。ダンサーも同じだ。智依子は楓が退屈するくらい時間をかけてしっかりと体をほぐした。おかげで身体は指先にいたるまで存分に温まった。
「じゃあ、今日はいよいよダンスの基本的な動きを教えようかな」
「やった！」
　はしゃぐ楓だが智依子は忘れずに言う。
「でもまだ一緒に踊るのはできないよ」
「えー、なんでー。ママといっしょにおどりたい」
「気持ちはわかるけどね、基礎がととのってない状態ではケガしかねないから」
　でも楽しいと思うよ、と言いながら智依子はリュックからスピーカーを用意した。Bluetooth接続できるものだ。スマホには昨日のうちに用意したプレイリストが入っている。定番のソウルミュージックから最新の楽曲まで、童謡のアレンジもアニソンも入っていた。すべて智依子のアドバイスを受けつつ楓が選曲したのだが、彼女のチョイスは智依子が舌を巻くほど練習に適切なものだった。
　スマホ画面の再生アイコンにふれる。音楽が流れ出した。
　小さな安価のスピーカーだが音色は美しく再現力も高い。なにより低音がずっしりしている。なおこのスピーカーはハローニャックの社割で購入したものだ。
　血の昂ぶりをおぼえながら、
「さあ、ママと一緒にやってみて」
　智依子は簡単な動作から開始した。
　楓もならう。
　最初は見よう見まねで着ごちなかった楓の動きは次第にこなれ、なめらかになり洗練されていった。やがて動きに一連の波が生まれ音楽と一体化するにいたる。まるで音楽を耳ではなく、体全体で聴いているかのように。
　この子。
　智依子は目を見張った。
　本当に脈があるかも――。
　ダンサーになるため生まれてきた、かつてChiCoはそう評されたものだ。しかしその言葉はそっくりそのまま、楓に与えてあげたい。
　ごく基本的な反復動作、にもかかわらず智依子はこれを芸術へと昇華させている。楓も遅れずついて行く。そればかりか、ときに智依子を超える瞬間すらある。
「よし、じゃあ次はこの動き。できるかな」
「やってみる！」
　どんどん進める。
　大技なんてない。いずれも簡単な動作だ。しかし音楽と一体化すると技巧にちがいなく、しかもまぶしいほど美しい。　
　最初に足を止めたのは、散歩中とおぼしき老人だった。
　つづいて中学生のグループが、なんだなんだと集まってきた。
　バトミントンをやっていた集団も手を止めた。「行ってみる？」とささやきあって実際そうした。
　自転車が止まった。スケボーも止まった。携帯を取りだして『この場所、来てみて！』と友人に位置情報込みのNYAINメッセージを送っている少女もいた。
　人は人を呼びさらに人を吸い寄せ、いつの間にかギャラリーとなって智依子と楓を囲んでいた。
　ふたりが披露しているのは基本動作の連続にすぎない。しかし基本動作であろうと音楽に乗り自在に組み合わせているだけで、もうそれは立派なダンスなのだった。それも、人を魅了するダンスだ。
　だが観衆をあつめていることに智依子も楓も気がついていない。それほど夢中になっていた。