Pioggia　Capriccioso｜リアクション

Pioggia　Capriccioso

　柔らかくウェーブした茶色の髪を背に払い、結城日和は廊下から聞こえてくる旋律に目を閉じた。ピアノの音色は重厚で、とても重たい。沢山の想いが詰まった音色は、聞く人の心に直接訴えかけるだけの力があるが、苦しくないのだろうかと考える。
　音は、演奏者の心を忠実に再現する。同じ曲を同じ人が弾いても、同じ音になる事はない。形のない音は、空気を振るわせただけですぐに消えてしまう。小さく、儚い存在に過ぎない。けれど、音の持つ力は凄い。小さな音の粒が集まり、曲になる。曲は静かに流れ出し、聞く人の心を大きく揺さぶる。
　窓の外に目を向ける。雨脚は強まってきており、世界を白く濁らせる。楽器に湿気はあまりよくないからと、雨を嫌う人は多い。けれど、雨の日だからこそ出る音と言うものがある気がする。普段とは少し違う、些細な日常の変化、それによって奏でられる音楽も素敵だと思う。
　目を閉じ、音に耳を傾ける。少なくとも、日和はこの音が好きだった。雨の音さえも組み込まれたこの曲は、今日でなければ奏でられなかったもの。
　日和はヴァイオリンケースを掴むと、素敵な音のするほうへ向けて走り出した。

　ジャラジャラと沢山ついたマスコットを揺らしながら、最上るるかは驚くような速さでメールを打つと、お洒落な模様のあしらわれた鞄にポイと入れた。今日は同好会の日で、どうせなら一緒に行こうと響也を誘ったのだが、何時までたっても現れない。まさかるるかを置いて一人で行ってしまったのではないかと一瞬だけ考えるが、あの響也に限ってそれはないだろう。るるかのアタックに戸惑ったような様子を見せはしても、邪険に扱うような事はしない。結局のところ響也は優しい人なのだ。
　来られない理由ができたとしたら、きっと連絡をくれるはず。それがないと言う事は、何かが響也の身に起きたということだ。不安を感じたのは一瞬で、すぐにその何かが音楽に絡んだことだろうと悟る。響也は、音楽馬鹿だ。時々閉口する時もあるけれど、そんなところも含めてるるかは響也が好きだった。イケメンだし。
「もー、響也が来ないなら、あたしの方から行っちゃうからねっ！」
　誰もいない教室で唇を尖らせながらそう言って、るるかは鞄を掴むと廊下に出た。開いた窓からは冷たい雨と風が入ってきており、廊下が少しだけ濡れている。誰が開けっ放しにしたのだろうかと考えながら窓を閉めるために近づき、風に乗って聞こえてくる旋律に、るるかの脳裏に思い出の日の光景が蘇る。
　あの日も、こんな放課後だった。忘れ物を取りに戻った音楽室から、綺麗なヴァイオリンの音が響いていた。うっとりするほど繊細な音色に惹きつけられるようにして覗いて見た音楽室で、るるかは運命の出会いをした。
　夕日に染まった窓を背後に、ヴァイオリンを弾くイケメン。一心不乱に弓を引く姿に見惚れていると、物憂げに伏せられていた目がるるかを見た。その瞬間、身体中に衝撃が走った。胸が痛いほどに締め付けられ、頬がほんのりと赤くなる。
　るるかが恋に落ちた運命の日を思い出し、胸が高鳴る。ピアノの音に混じって聞こえてくるヴァイオリンの音は、もしかして……いや、絶対に響也の音だ。
　るるかは窓を閉めるのも忘れ、一目散に北校舎へと走り出した。