Pioggia　Capriccioso｜リアクション

Pioggia　Capriccioso

　腰掛けていた机からピョンと飛び降り、雨寺凛は耳に手を当てた。雨音に紛れて聞こえてくる素敵な音楽に、意識を集中させる。どこか懐かしいような曲が、即興で作られたものだと言う事は、最初から気付いていた。雨の音や喧騒までもが音として捉えられ、曲に彩を加えている。……凄い。と、凜は声を出さずに唇だけで呟いた。
　曲がいったん途切れ、新しい旋律が流れ出す。先ほどは心に深く突き刺さるような、繊細な悲しみを纏った曲だったが、今度は明るくテンポの良い曲だった。自然と凜の爪先がリズムを取り、頭の中を音符が踊る。けれど、ピアノの音色は悲しげだった。ハートに直接訴えかけるような重厚な音色は、明るい音色と混ざり合いながらも、独特の存在感を放っている。
　凜は机の横に置いてあったギターを背に担ぎ、音楽室へと走り出した。音源が近づくごとに鮮明になって行く音の色に、凜の胸が高鳴る。走ったことによって荒れた息を整え、ギターを取り出して音楽室へと入る。るるかがパチリとウィンクを投げ、凜がそれに答えるように笑う。凜は静かにその場の空気を肌で感じると、呼吸とリズムを合わせた。素敵な音色を壊さないように気をつけながら、優しい気持ちで、前向きな力を乗せてギターを奏で始めた。

　悲しげな曲が途切れ、明るい曲へと変わった瞬間、深雪は立ち止まり、考え込むように音楽室の窓を見上げて押し黙った。赤い瞳には強い感情が宿っていたが、それがどんな気持ちを凝縮したものなのか、修には分からなかった。表情を見れば、苛立ちや憤りのようだったが、瞳だけ見れば悲しそうでもあった。
　傾けた傘から入り込んだ冷たい雨が、深雪の灰色の髪を濡らす。修は何も言わずに、自身の差していた傘を深雪の方へと傾けた。音楽室の窓が傘で見えなくなり、深雪の視線が足元に落ちる。黒いスニーカーの爪先を見ながら、深雪は雨音にかき消されてしまいそうなほどの声で呟いた。
「……お前の言いたいこと、俺ならわかってやることが出来るはずだ」
　隣に立っている修にすらも聞かせる気のなかった小さな独り言は、風の悪戯で修の耳に届いた。掠れた声は重々しく、思いつめたような横顔に修の不安が募っていく。
　修が思っているほど、深雪が弱くないことは知っていた。けれど、深雪は彼自身が思っているほど強くはない。そして深雪は、自己認識している弱さですらも張りぼての強さで覆い隠してしまい、結果的に自身を傷付けてしまう。
　明るい曲にも関わらず悲しげに紡がれるピアノの音色に、深雪は酷く入れ込んでいる様子だった。深雪は一度情を持った者にはとことん尽くすタイプだ。大切な者を守るためには自己犠牲を厭わない、そんな危うさを持っている。
　深雪に大切なものが増えていくのは良い事だと思うし、彼自身のためにもなる。けれど、大切なものが増えるという事は、守るべきものが増えるということでもある。深雪は心の底では自分の力の限界を知っているのだろうが、それを認めないばかりに無理をしすぎることがある。
　止めるべきなのだろうか。友人として、彼が認めない弱さを知っているものとして、彼にかかるであろう負荷を事前に取り除くべきなのだろうか。そんな思いが一瞬だけ浮かぶが、すぐに修は否定した。
　友人として修が深雪にしてあげられることは、それほど多くない。ほとんどの問題は、深雪自身が解決しなければならないものだ。だから修は、友人としてできる最大限のことをする。前に進もうとする彼の背中を押し、迷うならば道を指し示し、重荷に耐え切れなくなって潰れそうになった時は支え、転んでしまった時は手を差し伸べて立ち上がらせる。
　肯定する。今の深雪自身を、彼の選んだ道を ――。