自由登校が始まって、寝子島高等学校の３年生も慌ただしくなってきた。
　進学組はもちろん受験が控えているし、推薦組は学業やスポーツの成績維持に努めなければ期待を裏切ることになる。
　就職組だってそうだ。まだ内定が取れず落ち着きのない者もいれば、入社に向けて資格を取得したり、社会人マナーを予習したりする者など、それぞれが自分に適した場で追い込みを迎えていた。

　そんな忙しない時間を過ごしているのは、３年生を受け持つ教師たちも同じ。いつもなら研究室で籠もりっきりになれる五十嵐 尚輝も、この時期ばかりは生徒の相談に明け暮れていた。
　授業に関する質問から、自活に関する悩みまで。あまり口達者でない尚輝だからこそ、ゆっくり話を聞いてくれそうだと集う生徒たちに、力不足だなどと言ってもいられない。
　けれど、研究も疎かにしたくない尚輝がどうするか――そんなことは、御巫 時子にはお見通しだった。



　休日の今日。少し大きな保冷バッグを下げて、時子が向かうのは化学準備室だ。
　居ないなら居ないで安心するけれど、尚輝はきっと家に帰らず学校で寝泊まりしていることだろう。ようやく人間らしい生活が保てるようになったと思っていたのに、最近の忙しさでは食事もロクに取っていないはずだ。
（お昼休みも、一緒にいられることが減りましたね……）
　隙間時間に食べられそうな、小さなおにぎりとピックに刺したおかずなどは、極力毎日差し入れた。それでも尚輝は、何かに熱中すると食事を忘れてしまう性分なこともあって、なかなか１人では食べてくれない。
　もちろんそれも心配だ。けれど単純に、尚輝と過ごせないことが寂しいという気持ちもある。
「こんにちは、尚輝先生はいらっしゃいますか？」
　軽く準備室の扉を叩くと、中で何かが崩れる音がした。返事はないが、大丈夫だろうか。
　入ってもいいものかと数秒迷い、時子は改めて扉の外から声をかけてみる。
「あの……先生？」
　自宅ではないし、着替えている途中ということはないと思う。けれど、寝泊まりをしているのであれば、タオルで身体を拭くくらいはあるかもしれない。
　つい白衣の下に隠された滑らかな肢体を想像してしまい、顔を赤らめかけた時子はぶんぶんと頭を振る。例え尚輝があられもない格好をしていても、緊急時であれば駆けつけなくては。
「失礼しますっ」
　意を決して扉を開けると、尚輝は机に突っ伏して倒れていた。
　いや――たぶん、疲れて寝落ちてしまったのだろう。規則正しい寝息がひとまずの無事を伝えていて、時子は起こさないよう静かに周囲を見渡した。
　幾分か散らかってはいるけれど、足の踏み場はないこともない。先ほどの音は、おそらく尚輝が突っ伏す時、机上に纏めていた資料が崩れただけのようだ。
　持ってきた保冷バッグを安全地帯に置いて、散らばってしまった資料を集める。どれも彼が生徒たちの相談に乗る上で目を通していたものらしく、化学に関わるものなどひとつもなかった。
（やっぱり、素敵な先生です）
　苦手だからと他人任せにしないで向き合ってくれるところとか、好きな物に一生懸命になれるところとか。
　ぼさぼさの前髪で隠れ気味だけど、実験をしているときにはキリッとしている目元とか、成功したときには子供のように笑うところとか。あげればキリが無いくらい、尚輝には魅力が溢れている。
「……風邪をひいてしまいますよ」
　そんな彼の生徒でいられる時間は、残り僅かだ。
　この距離感でいられる保証がなくなる代わりに、関係を変えることができる。

　でも。
　あと少しが、待ちきれない。

　彼を起こすか起こすまいか悩みながら、拾い集めた資料をそっと机上に置く。
　ここまでぐっすり眠っているのだ、きっと尚輝には聞こえないだろう。
「尚輝さん……好きです」





　――休日の今日。尚輝は化学準備室で船をこいでいた。
　いつものように実験で、という理由もあるが、生徒たちの相談にのっていて気になったことを、持ち帰ることが気持ち悪かったという理由が大半だ。
　進路資料室に集まった、賃貸や資格取得のスクールなどの情報誌、それからそれからと資料を集め、キリの良いところまで目を通せば帰る心づもりではいたのだけれど。
　気付けば朝日が昇り始め、やってしまったと思う頃には疲労を自覚し、このありさまだ。
（……少し寝てから帰りますか）
　のそのそと外に出たところで、眩しい日差しに目を開けていられないだろうし、足取りだって覚束ないだろうことは安易に想像できる。
　帰ることを諦めた尚輝はそのまま机に突っ伏そうとして、ふと思い止まる。こんな生活が当たり前だった自分を心配して、足繁く準備室に通ってくれた彼女。
（卒業、か）
　ついこの間、入学してきたと思ったのに。
　気付けば、よく食事を抜いてしまう自分を心配して昼食を差し入れてくれることが増えた。気付けば、ここで２人こっそりビーカーでコーヒーを飲むことに安らぎを感じていた。それは校内だけに留まることはなく、私生活の範囲にまでじわじわと広がっていって。
（御巫さんに、容器を……洗わないと）
　やはり帰らなくては。でも急いだところで約束はしていない。そういえば、冷蔵庫には何が残っていたっけ。
　眠くて頭の回らないはずなのに、尚輝は少しでも睡魔に抗おうとカーテンの隙間に目を向けてみた。
　これだけ天気が良かったなら洗濯もできただろうになぁ、とか。掃除機をかけたのはいつが最後だったっけ、とか。それこそ彼女と出会う前、どうやって生活していたのかは思い出せないのに、家の至る所であくせく動く時子を思い出せるのは何故だろう。
「会いたい……」
　日々のお弁当に、作り置きおかずのお礼を言わなければ。それから容器を綺麗に洗って返却し、安心させなければ。時子も受験に忙しい時期だ、いつまでも世話を焼いて貰えるだなんて思ってはいけない。

　それでも、卒業したら。
「……時子さん」
　そんな風に名前を呼んでみたり、するのだろうか。



　夢うつつな尚輝の元へ、誰かが訪れた。
　大方、当直の先生が見回りに来たのだろうと、寝たふりでやり過ごすことにした尚輝は、今度こそ机に突っ伏そうとして――。
「こんにちは、尚輝先生はいらっしゃいますか？」
　勢い良く机に額を叩き付けた。
　あまりの痛さに眠気も吹っ飛んだが、どうやらこれは夢や幻聴の類いではなかったらしい。
「あの……先生？」
　間違いなく、時子の声だ。
　先ほどの恥ずかしい独り言は聞こえていないと思うけれど、なんともタイミングの良すぎる登場に会わせる顔がない。
　どうにか心臓を沈め、頃合いを見て起き上がり、いつものようにビーカーコーヒーを淹れる。
　この完璧な作戦を実行するため、尚輝は顔も上げずに耳をそば立てていたのだけれど、聞こえてきたのは甘い囁きだった。
「尚輝さん……好きです」
　その言葉に思わず顔を上げ、驚いた時子の腕を掴む。
　今はまだ、聞かなかったことにしたほうが良かったのかもしれない。だけど、もう。
　するりと時子の肩口に尚輝の手が回され、ぐっと引き寄せられる。その力強さに身を任せ、時子はそっと瞳を伏せた。

　けれど、待てども待てども何も起こらない。
　しびれを切らした時子がそぉっと目を開けたとき、彼の姿は前ではなく――隣にあった。

　彼は、時子の肩ですやすやと眠りに落ちていたのだ。
（……夢？）
　のっしりと乗せられた頭の重さを、引き寄せられたのだと勘違いするだなんて。
　それにしても、あれは本当に全部が夢なのだろうか。そのわりには、状況が全てありえそうだけれど。
（ありえる……でしょうか）
　好きだと言ったら、どんな言葉を返してくれるだろう。
　あの夢のように、態度で示してくれるだろうか。
「尚輝さん」
　ぐっすりと眠っているように見える尚輝は、夢と同じく狸寝入りをしているかもしれない。だから時子は、まず名前だけ呼んで反応を伺ってみた。寝ている彼に思いを告げることは前にもあったけれど、そのときは魚の名前だと勘違いされたのだったか。
「……高価なプレゼント、今度は貰ってくださいね」
　あのとき渡しそびれたクリスマスのプレゼント。もう少ししたら、彼は受け取ってくれるだろうか。
　楽しみにしていますと微笑めば、不自然に身を捩られた気がする。
　時子はくすくす笑って、それには気付かないフリをする。でも代わりに――同じ夢を見てやしないか聞いてみようと、尚輝が起きるのを穏やかな顔で待っていた。