イケナイコトカイ｜リアクション

イケナイコトカイ

　このとき、修を目指すようにしてひらひらと空から、白いものが舞い降りてきた。
「ハンカチ？」
　なんの変哲もない白いハンカチだ。白いハンカチがよく手品に使われるのは周知の通りだが、このハンカチは落下の仕方からして手品のようだった。正方形のかたちにひろがって、とっさに出した修の手にとどくより先に動きを止めたのである。
　つまり空中に静止したのだ。そのまま漂っている。
「なんだろ、これ？　あおい、どういうことだと思う？」
　怪訝な顔をする修だが、あおいは「何が？」と不思議そうな顔をしただけだった。「しいて言えば、寒いから？」
「いや気温は関係ないような……」
　ここで修は絶句する。舞い降りてきたものは白いハンカチだけではなかった。
　長い緑色の髪をした少女が、ハンカチと同じく白いワンピース姿で空から下りてきたのである。すうっと音もなく。
「ハンカチ落としちゃった。拾ってくれてありがとう」

　瞳の色も緑だ。
「いや拾ったというよりは」
　これは、と修が返すより先に、少女はハンカチをつまみあげてふたたび空に舞い上がった。
「じゃ、バイバイ」
　地上数メートルの位置でくるり宙返りすると、あらわれたときと同様、あっという間に少女は姿を消したのである。
　あやかし……？　いや、本当の妖精だったりして。
　少女の消えた空間にはレモングラスのような芳香だけが残った。
「雪だね」
　というあおいの呼びかけに我に返る。
　たしかに、灰色の空からちらちらと、冷たく白いものが降りはじめていた。でも小さくて薄い雪だ。綿毛のような。　
　今の見たかと訊ねる言葉を、修は凍てつく外気とともに飲み込んだ。
　幻ではないと思う。
　見えてなかったんだな、あおいには。
　妖精が見えてさ、といきなり話したら、あおいはきっと変に思うだろう。
　いやそれとも――。
　妖精の姿が見えなかった自分を、哀しく思うのではないか。
　あおいならきっと後者だ。
　高校入学直後のあおい、それどころか昨年までのあおいだったら見えていたんじゃないだろうか――そんな気もした。
「ごめん、俺、変なこと口走ってたかな。『なんだこれ？』とかさ」
「急に雪が降りはじめたからびっくりしたのかと思った」
「うん、そうだな。今日、雪の予報じゃなったから」
　降ったのは雪だけじゃないけどな。

　雪が降ったのはほんの数分だった。まもなく空はまた沈黙し、ハンカチも少女ももう降る気配はなくなった。桜花寮に着く。
「ありがとう。今日は送ってくれて」
「どういたしまして。あおいが望むなら俺は、千回だって送っていくよ」
「千回は無理だよね」わずかに間を開けてあおいはつづけた。「春には卒業だもん」
　だったらせめて卒業までは毎日でも、と言いかけた修より先にあおいが問いを発した。
「私がね、自由登校になっても毎日登校しているの、なぜだと思う？」
　ここで『俺に会いたいからだね』と即答できるほど修は傲慢ではないつもりだ。
「なぜかな」
「寝子高の記憶、残しておきたいから。三年間通った通学路、校舎、友達、チャイムの音色も教室の匂いも、学食のうどんスープの味だって、ぜんぶぜんぶ覚えておきたいから！」
「俺のことも？」
「もちろん、修くんのことも忘れないよ」
「光栄だね」
　と言って笑うのが、修にできるせいぜいのことだった。
　忘れない、なんて言うのはよしてくれ。
　別れの挨拶みたいじゃないか。
　もう一月、最終学年の三学期、だからといってまだ、終わりではないはずだから。