あなたがここにいてほしい｜リアクション

あなたがここにいてほしい

　外套を羽織り山高帽を頭に乗せて、紘之助は悠然と旧市街をゆく。
　正月の匂いも薄まってきたな。
　門松が立ち扉には注連（しめ）飾り、まだいくらかお屠蘇気分は残るものの、商店街の店はあらかた開いているし、郵便配達のバイクも殺気だったものではなくなっている。
　見知った顔には帽子を上げて会釈し、お出かけですかと問われれば「散歩だよ」とこたえ、気の向くままに歩いているうち、気がつけば旧市街を抜け、九夜山に入っても散歩は終わることがなかった。
　まだ日は高い。紘之助は山中、稽古場までたどり着いた。
　ついこの間のような気がしているが――。
　それどころか、あと何か月かで一年になっちまうんだな。
　光陰矢の如し。年を食ってからは猶更、嫌でも実感させられる言葉だな。
　最愛の孫であり教え子、十八歳になった孫と、紘之助はあの日この場所で立ち合ったのだ。
　彼の成長を紘之助は見た。見て味わって、送り出した。
　島を出た孫は、本土の大学で医師になる勉強をしている。長い休みがあれば帰省もするが、すでに手を離れたことはまちがいない。年末年始くらいゆっくりすればいいのに、試験が近いからと言って早々に本土へ戻っていった。そう、孫にとって『戻る』場所はもう寝子島ではなく大学のある本土なのだ。
　しゃあねえよな、あいつにもあいつの生活がある……か。
　齢（よわい）九十になってなお、杖いらずの紘之助である。しかしとぼとぼとした足取りで、おもむろに桜の木に近づいて幹に触れた。
　落ち葉のひとつもない。足元を払うこともせず、木の下に腰を下ろした。桜に背を預け見上げる。すっかり細くなった枝先を眺める。
「寂しい、んだろうなァ」
　白い呼気とともに、実感を吐き捨てた。
　しみじみと目を閉じたがややあって、くくと笑いがこみ上げてきた。
　らしくない……らしくないにもほどがあらあな。
　こういうメランコリックな感覚が自分にあると、紘之助は思ってもみなかった。
　あいつが巣立ってからは、手前の住処の無駄に広いことを思い知らされた数か月だったな。
　涸れ井戸の底にぽつねんと座る痩せ蛙、ふとそんなイメージが頭に浮かんだ。
　風はなく、遠く聞こえるのは鳥の声だけ。それもごく散発的なものにすぎない。
　小一時間ほど座ったころだろうか。
　立ち上がり、戻るべく歩み出したところで紘之助は足音を聞いた。
　足音はさくさくとリズミカルだがどこか警戒しているようでもあり、野生の鹿を思わせる。
　足音の主が見えた。見慣れない姿だ。少年のようである。
　孫と年格好は同じくらいか。
　無地の黒い野球帽。やはり黒のベンチコート、スニーカー履き。ずた袋を背負っていた。
　あどけなさも残る凛々しい顔立ちである。眉は意志が強そうで口元は涼やかだ。肌は浅黒いがつやもある。目つきにはいささか険があるも、花も恥じらう美少年と呼んでさしつかえなかろう。
　少年の二の腕に緊張が走ったのを紘之助は見た。さりげなく猫足立ちになっている。
　何気ない風を装っていこそすれ、その実なにかあれば瞬時に反応できる姿勢だ。逃げるためというよりむしろ攻撃するために。
　ほお、武道の心得があるみてえだな。とすれば稽古場が目当てか。
　しかしここは俺と孫しか知らないはずだが。
　いやまあ、入口を封鎖しているわけでなし。たまたま知っててもおかしくはねェか。
　稽古場、使いたきゃ使うといいぜ。爺は去るのみ――。
　山高帽を取って紘之助は道を空けた。
　すれちがいざま少年がボソっと何か告げた。「……ども」と聞こえた。一応の謝意を示したらしい。
　礼儀がどうとか言う気はねぇよ。生意気盛りだからなァ、あれくらいの年頃の小僧は。
　そのまま行き過ぎてもよかったが、「ああそうだ」と思い出して紘之助は少年の背に声をかける。
「タイヤ吊ってるゴムがな、痛んでんだ。今度までに交換しとくから、蹴りすぎるなよ。ボウズ」
　返事はまた「ども」だろうと思った紘之助だったがさにあらず、
「あンだとお！」
　意外にも、少年は鋭く怒気を発して振り返ったのである。

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