AFTER THE RAIN｜リアクション

AFTER THE RAIN

　意外なほどスパイシーだが、しっかり深みのあるキーマカレーだった。量はそれほど多くないが、また食べたいと思えるくらい美味だったのはまちがいない。
　カレーの皿をさげてもらって、あらためて珈琲を囲みつつ七瀬は言った。
「今日は誰かと、というかウォルターさんと話したい気分でした。聞いてほしいことがあって」
「僕と？　光栄だねぇ」
「それ本当、ですか」
「さっき作ったばかりだ、ルールは遵守してるよ」
　外は雨、ずっと雨だ。
　ウォルターは七瀬の目を見つめて言う。
「で、僕に聞いてほしいことって何かな？」
　あらたまってそう言われると、いくらか言いよどんでしまう。
「じつは……あっ、変な話かもですけど」
「変な話は好きだよ。気を楽にしてどうぞ」
　たしかにウォルターなら受け止めてくれるだろう。七瀬は心を決めた。ここに至る経緯を明かしてから言う。
「本を探しとったんですが、見つからなくて」
「タイトルは？」
「忘れてしまったんです。作者名も、それどころか中身も一切。……僕、記憶力には自信あるんですが、それでも忘れてしまうことはあるんだなって」
「けど、その本を読んだことは記憶にあるわけだね？」
　七瀬はうなずいたが、深くうなずいたわけではなかった。凪の日の浮きのように小さな動きでしかなかった。
「それすらも不安です。いつか、忘れたことすら忘れてしまうのかも。そう思うと、なんだか胸の奥がざわざわして……」
　ナイーブすぎやしないかと、笑い飛ばされるかもしれない。普通の人が相手だったら、そうなる可能性はあった。
　けれど相手はウォルターだ。彼は優しい目で言った。
「僕に似た経験はないけれど、倉前が言っていることはわかるつもりだよ」
　救われた気持ちだ。さらに七瀬は胸の内を明かした。
「僕が忘れるように、僕も忘れられるのかな……なんて考えるのは、天気のせいですかね。呼びつけておいてこんな話、ごめんなさい」
「ある日本の劇作家が、こんな言葉を残しているよ。『忘れることもまた、愛することだという気がするのである』、ってね」
　僕はさ、とウォルターは言う。
「倉前が罪悪感をもつ必要、ないと思うんだ。忘れてしまったとしても、読んだ事実はまちがいないんだろう？　いま倉前がその本のことを気がかりに思う気持ちだって偽りじゃない。それに倉前が忘れたって大丈夫だよ。僕が覚えていてあげる」
「ウォルターさん」
　七瀬は言葉につまった。
　だからうちは、この人が好きなんだ。
「それに、まだまだこれから、積み上げていけるものだってあるだろう？」
　……そうか。
　腑に落ちた。今日、ずっとわだかまっていたものが解けたように七瀬は思った。
「思い出はこれから作っていけばいい、ですよね」
「はい」
　ここで終わらせたくない。
　強い願いにつき動かされて七瀬は言った。
「うちは、貴方とそうしたいです。ウォルターさんが好きだから。貴方にとって特別な僕でありたいから」
　ウォルターは黙って聞いていた。少しの間をあけて、そっと言う。
「倉前、誰かの特別になるのは、窮屈なことでもあるんだよ。自分から『窮屈になりたい』なんて言わないでほしいな」
　微笑を浮かべてはいるが、どこか寂しげな口調だった。
　雨の日は、ジョークを言わない。
　つまり雨の日は本当のことしか言わない。
　いまの言葉が、ウォルターさんの本心やとしたら――。
　整理には時間がかかるのかもしれない。
　だけどつぎの約束だけはしておきたい。七瀬は誘う。
「今度うちと一緒に、本を作りませんか」
　ウォルターの返事は、
「どんな本？」
　だった。