AFTER THE RAIN｜リアクション

AFTER THE RAIN

「傘、俺が持つっスよ」
　傘の柄を受け取って花音は握った。ざっと三十センチは身長差があるので当然だろう。　
　かくして彼女の傘の下に入った花音だが、数歩歩くや即座に問題発生のアラートを頭のなかで聞いた。
　小っちぇ！
　いや、俺の図体がデカすぎるだけかもしれないが。それにしても、これは。
　傘が小さいのだ。ただしくは傘がカバーする面積が。
　女性用なのだろう。小型の折りたたみ傘ほどではないが、花音ひとりで使うにしてもトゥー・スモールである。ややもするとはみ出してしまう。幸い風は収まったものの、濡れるのを回避するのは楽ではなかろう。
　花音の体質、いや『ろっこん』能力であるところの『Lycanthrope』の、しきい値がどのあたりにあるのかはわからない。ただ、雨であればわずか一滴触れても変身してしまうほど過敏ではないらしく、現在の少し革ジャンが濡れる程度のコンディションならセーフのようだ。だが静観はできない。
　いつなんどき狼に変わるかわからないからだ。あまり濡れるわけにはいかない。
　だが下がれば背が濡れ、左に行けば左に行ったで、肩と腕が無防備な姿をさらす。かといって前進するのも危険すぎた。前髪から額にかけて大変なことになるだろう。絶妙のバランスが必要だ。花音は高層ビルに張ったロープで綱渡りしている気分だった。
　しかし最大の問題は雨ではない。
　これに増して花音の緊張感を高めるものは、
「お花屋さん、濡れますよ。もっと近くにきてください」
　と彼女が身を寄せてくれることだった！
　まさに天使だ。疑うことを知らないかのように、彼女はぴたりと花音に接触してくる。
　それこそ、腕と腕がふれあうくらいに。実際ふれあっている。
「小さい傘ですから」
「ち、ちいさくてかわいいっスよ」
　小さいくてかわいい――まさしく彼女のことではないか。
　いまの発言、変に誤解されてなきゃいいが。
　いや、誤解じゃなくて本心だが、じゃなくて！　さっき言ったのは純粋に傘の話なんだ。
　けっしてナンパ男みたいに軽く誉めたわけじゃねーんっスよ！
　自意識は暴走し花音の脳内温度をさらに上げる。クールダウンは困難だ。
　ヤバイ。
　花音の頬を伝うのは雨ではない。汗だった。
　緊張でさっきから心臓はバクバク鳴りっぱなしだ。
　意識を他へ持っていかねーと……何か話題でも振るべきか？
　沈黙は避けたい。避けたいから話題を探す。
　できれば彼女に名前を聞けるような話の流れになるものがいい。
　でもそうはうまくいかないものだ。花音は悟った。
　頭が真っ白だ！　な、情けねえ！
　しかし救いはあった。彼女のほうから話を振ってくれたのだ。
「そういえば前、ハロウィンの仮装コンテスト会場で会いましたよね」
「会ったっスね」
「覚えてます？　あの日のこと」
「も、もちっス」
　うわーこの言い方だと忘れてたことごまかしてるみたいじゃねぇかー！？
　心に空いた暗黒の洞穴に、力の限り叫びたい花音である。
　けれど彼女は言葉通り受け取ったようで、特に含む様子もなく「言ったと思いますが、あのとき、コンテストのゲストでグラビアアイドルが来てたんですよ」と言った。
「で、そのグラビアアイドル、女の子ふたりなんですけどね。ステージ上で交際宣言したんです！　わたしびっくりして」
「それは知らなかったっス」
「うらやましいなぁ。けっこう話題になったみたいですよ」
　へーそれは、と言いかけたところで花音の心に疑念が生じた。
　うらやましい、とは？
『わたしも女の子しか好きになれないんです』
　って、唐突なカミングアウトが飛び出すんじゃないよな。まさかだよな。
　そんなことになったら自分はどうするだろう。
　硬直するのか魂が抜けてしまうのか、それでもこの人のことを、応援したいと思うのだろうか。でも少なくとも取り乱したりはしないだろう。傘から飛び出して狼と化し、どこかへ走って行ったりはしない。それだけはわかる。だから覚悟する。
　この先どんな発言があっても、俺はちゃんと聞く。聞き遂げる。
　不退転だ。