夏暑くて冬寒い――いずれの形容詞にも『容赦なく』が頭につく。それが猫鳴館だ。
　南極点からの帰路で遭難、橇（そり）を引く馬たちはすべて死に食料も尽きかけ、空腹と疲労を抱えながらテントで凍える……そんな絶望的な夢を見て目が覚めた。
　それって南極点を目指したロバート・スコット隊だっけ。
　イギリスの海軍将校にして探検家ロバート・ファルコン・スコットは人類史上初の南極点到達を目指すもノルウェーのロアール・アムンセンに敗れ、遭難し部隊ごと全滅したのだった。あまり景気のいい話ではない。
　小学生時代に本で読んだ物語だ。なぜそれをいまごろになって夢に見たのだろうか。
　まあいいや。
　それより、もう少し寝よう。
　ダイアモンドダストがちくちく頬に刺さるような感覚にあらがい、月原 想花は寝返りをうつ。頭にはまだ、真綿のような眠気がまとりわりついている。せっかくの日曜日だ。二度寝を楽しみたい。
　……。
　駄目だった。
　寒すぎる。
　巨大な船の船底なり古代遺跡の石室なりにいる思いだ。いっそのこと巨大冷蔵庫か。
　猫鳴館のすべてを評価するつもりはない。それどころか数え上げればマイナスばかりのこの場所であり寝床だが、夏は炎熱冬は酷寒、自然現象のおかげで夏冬は目覚まし要らずなのはまちがいなかった。
　想花は寝床から這いでて廊下をめざした。
　洗面所で最初にしたことは、冷たい水での洗顔だった。効果はてきめん、一発で目が覚めた。もやもやした眠気は吹き飛び雲の彼方だ。
　首にひっかけたタオルで顔をぬぐって鏡を見る。

　うーん。
　いつの間に髪がこんなに伸びたのか。あと、総量も多い。
　ぼさぼさもっさりとした髪は見苦しく重そうだ。前髪の毛先はすでに目にかかっておりいよいよ限界といえよう。
　決めた。
　髪、切りに行こう。
　前のめり気味に洗顔と歯磨きをすませ、想花は部屋に戻り身支度した。
　といっても時間をかけたメイクアップとは無縁だ。むしろスピーディすぎるくらい簡単に終えた。下着の上にヒートなんちゃらという機能性インナーを着用、さらに黒地の長袖ロンＴを重ね着している。パンツはやはり黒のスキニージーンズ、またまた黒のロングコートを羽織ればそれで完了だ。TシャツはロックTで、サイボーグ忍者が空飛ぶマシン鮫にまたがり激闘を繰り広げるというなんだかよくわからないがサイバーな図柄である。チープ寸前、というよりチープそのものだがこれはこれでありだろう。北欧かドイツあたりのバンドのものと思われる。なお表には出ないが、ヒートなんちゃらの色も黒であることを申し添えておきたい。
　時刻は午前十時なかば、薄曇りの空とはいえ雨の気配はない。もちろん寒いが歩いているうちに暖まってくる。
　想花はキャットロードを目指した。以前利用した格安理髪店があるのだ。格安だからスピード重視の店である。スタートから完了までわずか十五分程度、おかげで店員が話しかけてきたりしないのが助かる。ああいうシチュエーションで何を話したらいいのか、想花はいつも困るからだ。
　もうじきこのうっとうしい髪も軽くなると思えば心も軽い。意気揚々と店に到着した。
　けれど想花はガックリと両肩を落とすはめになった。
　満員状態だった。それも生半可な混みぐあいではない。行列ができている。
　そっか、日曜午前中なんて一番混む時間帯だよね。
　軽快に走り出した日曜日の気分がたちまち緊急停止、出端を挫かれた。
　このぼさぼさもっさりにあと一週間耐えろというのか。意識すればするほど髪は肥大化し、超巨大アフロヘアはおろか気球みたいなサイズになっていくような気がしてきた。
　気球か。ならいっそこのまま浮かび上がればいい。
　ぼわぼわふわふわと空を飛び、寝子島の上昇気流にのって寝子島を眼下に眺めるのだ。そしたらキャットロードのビル群なんて消しゴムくらいに見えることだろう。けれど眺望を楽しめるのもこのあたりまで、それでも浮いて浮いてとうとう成層圏をつききって、人工衛星に衝突するのはどうか。だがこれを攻撃とかんちがいした某国が隣国に宣戦布告、盛大にミサイルを発射し世界は最終戦争（アーマゲドン）へ突入する。
　ああ、すべてはぼくが今日、髪を切れなかったせいだというのか。なんと罪深きこの髪……。
　空想にひたりきっていた想花は、呼びかけられたことにしばらく気がつかなかった。
「想花さん？」
　どうしたの、と肩に手を置かれ飛び上がりそうになる。
「わっ、あ、アーマゲドンのことなんか考えてなかったからっ」
　我ながら意味不明のことを口走り、ようやく想花は目の前に級友川上 紗櫻都（かわかみ・しゃるろっと）の姿を認めたのである。目の覚めるようなブロンドをタテ巻ロールに編むというアンシャン・レジームなヘアスタイル、母親がフランス人というダブルな生まれ、なのでこの名前も『Charlotte』を当て字にしたものである。『る』に『櫻』を当てた理由だけは謎だが。
「アーマゲドン？　なんで？」
　あっはっはと紗櫻都は笑った。貴族のお嬢様風の名前に髪型なのに、彼女は奥ゆかしくくすくすと笑ったりはしない。
「いや、そういう丼（どんぶり）料理があるってなんかで聞いて……」
　さらに意味不明な言い訳だという気がしたが、想花は無理に言葉をひねり出してみた。するとピンときたらしく、
「アーマゲ丼？　『ふたつで充分ですよ』？」嬉しげに紗櫻都は言うのである。『ふたつで～』のくだりは早口で。
「ごめんそれ何か元ネタあるのかな？　わかんない」
「あー、昔の映画だよ。想花さんそういう絵柄の服着てるもんだからてっきり」
　シャルロットは想花のロンTの柄を示した。ややがっかりした様子だがすぐに復して言う。
「ところでお出かけの最中？」