あおい、ソラ｜リアクション

あおい、ソラ

　急がなきゃ！
　ストーブの前から動きたくないような朝だが今朝の鴻上彰尋には関係なかった。ベッドから飛び出すとバタバタとシャツを探し腕通す間も惜しむように着る。ジーンズは黒いテーパーテッドかやはり黒いスキニーの二択だが迷っている時間はなく最初に目に入ったほうをひっつかんだ。白いタートルネックセーターに手を伸ばしたところで鏡に気づき洗面台に飛んでいって歯を磨き顔を洗う。鏡の右斜め上方に視線をスライドさせ逆文字のアナログ時計でまだ大丈夫と確認すると、もう一度念入りに歯ブラシを前後左右上下させ新しい脚本を読むときに匹敵する集中力で髪型をととのえた。
　セーターを着る前になにかお腹に入れておこう、そうきめて冷蔵庫を開けるがあいにくロクなものがない。ブロッコリーかペラペラのプロセスチーズか。問題はコンロにかけたヤカンをどけてまでブロッコリーを茹でている時間はなさそうということ。でもここで昨日の帰りがけに買った百均のニャロリーメイトを思い出す。
　食べ終えてまた気になって鏡の前に戻る。買ってまだ三回しか使ってない薬用マウスウォッシュをキャップに注ぐ。計量を誤って二倍の量を使うはめになりあまりの刺激に涙目になった。だがこれ以上なく目が覚めたのは事実、生まれ変わった気分でセーターを着てキャメルカラーのダッフルコートを羽織る。
　もう一度鏡の前に戻って――よし、悪くない。
　リュックを手にすると彰尋は小走りでシーサイドタウンの自室を出たのだった。
　少し前に時計の針を戻そう。彰尋は早朝こんな会話をした。
「おはよう。こんな朝早くにごめんね。寝てた？」
「うん、起きてたよ。おはよう」
　実は寝ていた。携帯を水中バレエのような動きで手に取り発信者名を見てとっさに演技したというのが本当のところだ。といっても厳密にいえば電話に出た瞬間には『起きてた』わけだから嘘ではない。
「こんな時期に悪いんだけど……今日、なにか予定あったりする？」
　ないよと彰尋は即答した。宿願のＡＯ入試にはパスした。今日はせいぜい、春からのひとり暮らしで必要なものをネットで物色したり名優の舞台DVDを再々鑑賞したりするくらいの予定しかなかった。もちろん現在話している相手に声をかけることも考えないではなかったが、遠くへ行く彼女に遠慮してひかえていた。
　だから心底驚いた。
　あおいさんから連絡してくれるなんて！
　今日は前連絡もなく北関東から弟が遊びに来たので、急きょ九夜山を案内することになったのだという。
　嫌じゃなかったらと前置きしたうえで、一緒に行こうという誘いだった。エネルギー過剰気味な中三男子とアウトドアですごすのは姉ひとりの手に余る。いわく「頼りになるお兄さんにもいてほしい」とのことらしい。
　頼りになるお兄さん、か。
　なんだかくすぐったい気持ちだった。本当に頼りになるかどうかはわからないが自分も双子の弟妹がいる身、それなりに『兄』らしく見えているらしい。でも次男坊だから『弟』でもあるのだが。
「朝食も終えてるしすぐ行くよ」
　思わずこう即答してしまって、彰尋は倍速再生のひとり芝居を演じるはめになったのだ。
　でも弾む心のBPMは、競歩選手みたいなスキニージーンズの歩みより速いくらいだった。

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