しずくがこぼれおちるとき＜白＞｜リアクション

しずくがこぼれおちるとき＜白＞

　――21：33、南東のグラフティ「両手を広げた少女の絵」

　倉前七瀬が、南東のグラフティが描かれている場所に到着する。
　シーサイドタウン駅の海側の裏手で、見上げれば駅ビルがピカピカ瞬いているのに、ここは暗い。
　灯台の下は闇が深くなるというがまさにだ。
「ふーむ、ここでしょうか。ちょっとただならぬ雰囲気が漂っとるような」
　そろり、慎重に近づいてゆく。
　絵は線路下の陸橋の脚に描かれていた。
　両手を広げた少女の絵だった。
　目を瞑っている。
　髪が半分は白、半分は黒で、まるでアトリエで見た滴の死体のようだ。
　先に送られてきた塗りつぶされた寝子島の絵の荒々しさとは一転、繊細なタッチだ。
　グラフティそのものは白と黒のモノクロで、画材は白はチョーク、黒は木炭だろうか。
「もう少し近づいて観察を……って、わあ」
　絵から青光りする黒いナイフが現れ、七瀬に向かって飛んできた。
　咄嗟に＜空気を「読む」＞で本を出現させてナイフを叩き落とすと、絵から距離を取る。
　そこに、金の鍵を首から下げた黄色いカナリアが急降下してきた。

　桜井ラッセルだ。
　着地するやいなや、少年の姿に戻り七瀬に駆け寄る。
「倉前！　人手いりそうか！？」
「ちょうどよいところに来てくれました。ナイフが出てきて絵に近づけんとですよ」
「ナイフが？」
　半信半疑で絵に近づくと、あと数メートルというところで絵の表面から無数のナイフが現れ、ラッセルめがけて高速で飛んできた。避けようと進路を変えるとナイフも軌道を変えて追いかけてくる。
「うっそん」
　ラッセルはさらに逃げた。５０メートルほど離れたところで振り返ると、ナイフは消えていた。
「距離が離れると消える仕組みのようですね」
　見ていた七瀬が言う。
「ええー。じゃあ上空から近づいたらどうだろ」
　ラッセルは再びカナリアになると上空から絵に近づく。
　だがやはりあと数メートルというところでナイフが現れ、飛び出した瞬間から軌道を上にとってカナリア／ラッセルを追いかけてきた。
「じゃあフクロウなら？　羽音、ほとんど無音だし」
　変身する。だが、結果は同じだった。
　ラッセルは七瀬のそばに戻ってくると少年の姿に戻った。
「意思持ってるぽいってのがヤベーな」
「不用意に近づくのは危なかですね。僕の運動神経がよかったら、ナイフを避けている間に絵を調べてもらうっていう芸当ができるっちゃろうけど、生憎とそこまでの運動神経は持ち合わせとらんのですよね……」
「カナリアでもフクロウでも近づけねえもんなぁ。核やリーダーみたいなのがいれば止めれねーかな」
「僕、見てましたけど、どのナイフも同じに見えました。敢えて言えば、核は絵そのものかもしれませんが」
「絵かぁ。消すか上書きすれば、あるいは……」
　いやいや、とラッセルは首を振る。
「そいつは最終手段にしたいな。絵師にそれをするのは冒涜だし、悲しいから」
「やさしいですね」
「あ、でも勝手に描くのはいけないことだから消してもいいのか？」
「そもそも近づけんと消せんですが」
「そうだよな。あーもう、どうすりゃいいんだ。フクロウになって石でも投げるか？　狩るか？」
　ううん、と考えこんでいた七瀬はふと、手の中の本を見た。
　ナイフを叩き落とすために出現させた本は黒い革表紙で留め具がついているアンティークな装丁だった。
「そうだ、本の中身から情報を得られないでしょうか」
　ぱちんと留め具を外し、中身を読む。
「あれ……」
　ほとんどのページが空白だ。こんなことはあまりないのだが。
　不思議に思いながらページを繰っていくと、最後のページにようやく文字があった。

『present』

　ただ一言、それだけ。
「……『現在』？」