BABY STRANGE｜リアクション

BABY STRANGE

　ときめきは、いつどこから出現するかわからない。
　その日、御巫時子のときめきは意外なところから姿を見せた。
　とうに下校時刻をまわっている。下校する生徒も部活にむかう生徒もあらかた出て行ってしまって寝子高校舎はしずまりかえっていた。校庭をランニングする部活動の声、『威風堂々』らしき吹奏楽器の音色もあったが、距離があるせいかいずれも水で薄めたような響きでしかない。まともに聞こえるのは、ざりざりと砂を踏む自分の足音くらいだ。
　とぼとぼととまではいかずとも、どことなく視線を伏せ気味にして廊下を時子は歩いていた。
　尚輝先生、いらっしゃいませんでした――。
　化学実験室には鍵が下りていたのだ。五十嵐尚輝は午後まで市の研修会があったため、今日は昼食をともにすることもできていない。もう帰宅するほかなかろうか。とりたてて何か約束していたわけではないが、会えずじまいの一日になりそうで寂しかった。
　それゆえに唐突にうちこまれたときめきは、黄金の矢のごとく時子の胸を貫くほどの勢いがあった。
　……尚輝先生っ！

　ちょうど進行方向、空き教室の窓に尚輝が見えたのだ。他にはウォルター・Bと桐島義弘、蝶ネクタイの雨宮草太郎校長までいるではないか。逆に言えばメンバー構成はその四名のみである。同じ寝子高男性教師、校長をのぞけば全員三年生の担任という共通点はあるものの、それ以外に重なる部分を探すのは難しい。個性的にはバラバラもいいところ、滅多にない組み合わせだ。
　職員会議でしょうか……？
　だとしたらこの四名限定というのは奇妙だ。隠れる必要もなかろうが、思わず時子は膝を曲げて身を隠した。
　そろりそろりと扉に近づいて耳をそばだてる。
「……時間つぶしでもするかい？　……親睦をかねてトランプやろうよー」
　校長のとぼけた声が聞こえてきた。やはり会議の席らしい。なんらかの事情があってこの四人だけ早く来すぎたようだ。同意の声もする。
　興味深い展開だ。
　教師同士で親睦を深めるのはいいですね。あ、もしかしたらそのために尚輝先生、早く会議室入りしたのかもしれません。
　時子はにこにこしてしまう。尚輝が他の教師と接点をもつことはまれだ。とくにウォルターと話しているところは目にしたおぼえがない。あったかもしれないが、ごく短い業務上のやりとりだけだったはずだ。
「なにやるー？」
　これも校長の声だ。扉を隔てているのでどうしても途切れ途切れになってしまうが、このときセブンブリッジとかナポレオンとかゲーム名はあがったものの、最終的には大富豪ということに決まったようだ。
「ぼ、僕わかりません……」
　時子は尚輝の声を聴き取ることに成功していた。他の三名の驚きも耳にする。
　尚輝先生……。
　室内の様子は見えないものの、尚輝がしょげているところは想像できた。知らないからといって悪いはずもないのに、申し訳なさそうに頭を下げているところも。
　尚輝の哀しみは自分の哀しみだ、そう言語化したことがあるわけでもないけれど、時子は連鎖的に胸を痛めていた。
　もうこらえきれない。
「私、大富豪のルールならわかります！」
　ドアを大きく開けはなち時子は戸口に立った。大股で尚輝のもとまで歩み寄り、スポットライトを浴びる舞台女優のように、視線を意識しながら彼の近くの椅子を引く。
「先生、私が応援役としてそばにいます。どうぞご参加を」
「ほう？」
　義弘が前髪をかきあげた。目が恐い。
　ほっほっほと草太郎校長が笑う。
「威勢のいいことだね、喜んできみの参加を承認させてもらうよ」
　しかし校長の顔には、懐中電灯の光をあご下から当てたような影が生じており悪役感がただよっている。
　鋭い視線はウォルターから放たれているものだ。
「ルールを知っている程度で、この僕に勝てると思わないでほしいなぁ」
　ウフフと笑うと青い目が蛇のように輝いた。
　恐ろしいまでの三者のプレッシャーではないか。しかし時子は臆することなく、
「わからないことがあればなんでも聞いてください」
　と彼に耳打ちするのである。
　……などというわけにはいかなかった。時子は声を出すはおろか、ドアに手をかけることもできないままだ。さすがにそこまで大胆にはなれない。
　――私が、先生に教えてあげたいです。
　職員会議といっても長時間ではないだろう。帰宅は見あわせることにして、時子は化学実験室に戻ることにした。会議が終わるまで部屋の前で先生を待とう。
「あっ」
　ここで小さな声が出た。
　トランプ、用意しなくっちゃ。

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