BABY STRANGE｜リアクション

BABY STRANGE

　暦のうえの"month"がひとつ数を増せば、たちまちにして季節が変わるわけでもないだろう。
　実際、八月が九月になったところで暑いものはまだ暑いし、にわかに影が長くなったり、日がするすると釣瓶（つるべ）落としに落ちていくはずもないのだった。
　八月の残像を、多分にとどめた朝だった。
　妙に暑くて息苦しく、窮屈な気持ちとともに月原想花は目をさました。
　さいぜんまで見ていた夢が頭にこびりついている。奇妙な夢だった。東京行きの特急列車、ガラガラの車内なのに想花はなぜか、狭いふたりがけのシートに紳士と隣り合わせで座っていた。しかもその紳士ときたら、首から上が稲穂なのだった。収穫の時期が近いらしく紳士の頭（こうべ）は垂れ下がっており、手にした文庫本に頭の先がふれてしまっていた。俚諺にいう謙虚さを見出すよりも、『あれじゃ読みにくくない……？』という違和感のほうを想花は強くいだいた。なお紳士が没頭していた書物は、フランツ・カフカの『城』だった。
　なんだったのかな、さっきの夢。
　生あくびをかみ殺しながら想花は思った。
　列車が東京行きだと確信していたことからして不可解ではあるが、なぜに紳士の頭が稲、なぜに書籍がカフカの『城』、奇妙なことだらけである。そもそもカフカなる作家については、中学に入ったころに背伸びして『変身』を読んだことがあるくらいで、実際に『城』を読んだことがあるわけでもないというのに。ネットの書き込みか映画評か何かで、不条理小説といえば――という文脈で目にしたことがあるにすぎない。
　夢が不条理すぎたからゆえの連想か。
　それともなんらかの暗示的意味があるのか。
　……どうでもいいか。
　それにしても暑い。
　ふらふらと廊下をでて共同の洗面台まで歩き、勢いよく蛇口をひねってばしゃばしゃと顔を洗う。持参のタオルでぐいと拭って、ようやく人心地がついた。
　今日は休日だ。でもとりたてて予定はない。
　それでもどこかへ行こうと想花は決めていた。
　とくに行く当てもないけれど。
　猫鳴館にいてもきっと、気分がふさぐだけだろうから。

　あまり考えずにワードローブから引っ張り出したのは紫地のタンクトップだった。前面に大きくプリントされているのはファンタジックな構図である。この図柄を『塔をぶち割って顕現する魔王』と想花は解釈している。魔王はまがまがしく巨大で、足下に逃げまどう人類はちょっと危機一髪気味だ。なお元絵は北欧のメタルバンドのアルバムジャケットらしいがよく知らない。下に書かれているバンドのロゴも読めない。
　このタンクトップに黒のスキニージーンズをあわせ、携帯以外は入っていないペラペラのリュックをかつぐと、適度に履きつぶしたスニーカーにかかとを入れる。
　寮の玄関脇には薄汚れた全身鏡が設置されている。上部に『……年度卒業生寄贈』という文字が白い筆で入れてあるが半分以上かすれて読解困難である。肝心の年度にいたっては完全に消失していた。
　なんとなくその文字を想花が読んだのは、もちろん字そのものが目的ではなかった。我が身を映して眺めたためだった。
　ダサダサだよね、我ながら……。
　いくらか前髪のはねたベリーショートもあいまって、男子にまちがわれてもおかしくなさそうだ。
　もっとゆるふわっとしたブラウスでも着るべきなんだろうか。しかもフレアスカートで。
　鳥肌がたちそうな想像である。
　でもこういう服装のほうが楽でいいんだよね……ぼくは地味子で不細工だし、おしゃれしても似合わないから、こういうのが一番だよ。
　鏡の中の自分が、漬物石みたいなコンプレックスに押しつぶされた自嘲を浮かべている。
　客観的にいえば厳しすぎる視線ではある。大抵の人は想花の容貌を、綺麗めの顔立ちと認めるであろうし、眼鏡を取ったら美人だと認める人も、けっこうな数いるはずだ。好みもあるかもしれないが、眼鏡をかけたほうが五割増しで美人だと主張する声も、無視できないほど出ることだろう。
　けれどその事実をまだ想花は知らない。
　ダサダサと卑下しているこの装いとて、シンプルな服装の似合うタイプの彼女には、もっとも合ったスタイルだということも知らない。

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