あなたの望む過去｜リアクション

あなたの望む過去

　喫茶店のバイトを終えた高梨彩葉が店の前に立っている。
「料理屋さんなんてあったっけ？」
　前髪の奥から微かに覗く青い目の動きが忙しない。半ば釣られて上半身が動く。結んだ長い髪も興味を示したかのように背中で揺れた。
「なんでかなー、中が全然見えない」
　ゆったりとした長袖シャツの上から腹部に手を当てる。
「お腹も減ったし、入っちゃえー」
　店に入った直後にタキシードの人物に迎えられた。
「いらっしゃいませ。これが当館のメニューになります」
　差し出された二つ折りのパンフレットを、わざわざどうも、と硬い声で受け取った。
席の案内も望めない白い空間に立たされた彩葉は、その場でパンフレットを開いた。
「ここで読んでも、いいですよね？」
「はい、ゆっくりとご覧ください」
　正装の相手に緊張しながら彩葉は内容に目を通していった。

　教室の席は整然と並んでいる、とは言い難い。右や左に不規則に出っ張っていて、私語の多い生徒達と同じで落ち着きに欠いていた。
　その中程に彩葉は座っている。各々の机の横にあるフックには赤や黒のランドセルが吊り下げられていた。
「これって五年生の時の……」
　彩葉は左隣に、そっと目をやる。一人の男の子が鉛筆で黒板の内容をノートに書き込んでいた。忙しなく動く右手の側には長方形の消しゴムが置いてある。
　彩葉は消しゴムから目が離せなくなった。唇にそれとなく力が入る。スカートをハンカチに見立てて汗ばんだ掌を拭いた。
「あ、落ちた」
　男の子の右手に当たった消しゴムは床に落ちた。二度、三度と跳ねて彩葉の机の左下に止まった。
　男の子は落としたことに気づいていない。周囲は昨日のテレビ番組の話題で盛り上がっていた。
　彩葉が身体を傾けて左手を伸ばせば消しゴムは取れる。実際に一度は手に取った。それが切っ掛けで少し仲良くなり、男の子のことが好きな友達には嫌われて虐めの対象となった。
「……お願い、お願いだから自分で拾って」
　彩葉は両手を祈るように組んだ。
「あれ、消しゴムがない？」
　隣から男の子の声がした。彩葉は組んでいた手を解いて安堵の表情を浮かべる。
　無事に消しゴムは男の子の手に戻るのであった。

　次の日、彩葉が機嫌よく学校に行くと、友達を先頭にした集団に声を掛けられた。
「悪いんだけど。ちょっと付き合ってくれる？」
「うん、いいよ」
　集団は校舎横の人気のない駐輪場で足を止めた。
「彩葉、あんたさあ。なんで北山君の消しゴムを拾ってあげなかったのよ」
「なんでって。私じゃなくてもいいかなって思ったから」
「本当は違うよね？」
「なんで、そんなこというの」
　友達は別の一人に目を向けた。その女の子は誰とも視線を合わせないようにして話し始めた。
「わたし、見ちゃったの。北山君が消しゴムを拾う時、彩葉ちゃんが笑ってたのを」
「違う、違う。私は笑ったわけじゃなくて」
「彩葉は笑わなかったのね」
　友達の問い詰める口調に、笑ったけどさー、と返した途端、相手の顔色が変わった。
「あんたに北山君を笑う資格はないよ！　今度はあたし達があんたを笑ってやる」
　来た時と同じように友達を先頭にして集団は引き上げていった。

　白い空間に戻ってきた彩葉は大きな溜息を吐いた。
「私が消しゴムを拾っても、拾わなくても虐められるんだね。滑稽だよ、本当に……嫌になる」
　側で黙って聞いていた相手が口を開いた。
「望まれなかった過去は残念でありますが、お客様は見事に克服されました」
「まあ、そうかな？　でも、明るい方がいいよね」
「私にはお客様の性格の明るさが眩しく映ります」
「そ、そうかなー」
　相手に背を向けた彩葉は前髪に手を入れた。覗く青い瞳に憂いの色はなかった。