あなたの望む過去｜リアクション

あなたの望む過去

　平屋の大きな建物を目の前にして刻人・F・ミセリアは、懐かしいですね、と口にした。
　外観を仔細に見ることなく、刻人は白塗りのドアを押して中に入った。
「螺旋階段はないのですね」
「いらっしゃいませ。お客様の要望がございましたら、この白い空間にどのようなものでもご用意させていただきます」
　右方で頭を下げるタキシードの人物に刻人は薄い笑みを浮かべた。
「過去に戻って彼女に会いたい」
「承知致しました」
　相手の即答に刻人の笑みが深くなる。
「それは楽しみですね」

　刻人は肘掛の付いた革張りの椅子に座っていた。
「ここは昔の僕の部屋。まだ両親は離婚していないみたいですね」
　ふと視線を下に向ける。足先が床に着いていなかった。
「小学生の姿ですか」
　刻人は姿勢を正した。木目が美しい机の上には小さなカレンダーが置いてあり、特定の一日に赤い丸印が付けられていた。
「今日があの日なら、そろそろですか」
　刻人の言葉を証明するかのようにドアをノックする音がした。どうぞ、と背後に向かって声を掛ける。
　ドアを開けて入ってきたのは初老の男性であった。
「刻人様、今日のテキストをお持ちしました」
　言葉は丁寧だが目付きは鋭い。刻人の隣に立つと持参した紙の束を差し出した。
「教授、これを僕にやらせるのですか」
「刻人様の頭脳があれば、解けるかと」
　蓄えた顎鬚に手をやりながら教授は答えた。
「わかりました。二度目の問題を手こずる訳にはいきません」
「あの、それはどういう意味で」
「時間が惜しいので少し黙っていてくれますか」
　刻人の厳しい言葉に教授は曖昧に返して部屋の隅に退いた。

　エントランスホールには、めかし込んだ三人の親子がいた。女の子が心配そうな顔で両親を見上げる。
「パパ、ママ。お兄ちゃんはどこ？」
「お兄ちゃんはね。大切なお勉強があって、今日は一緒にいけないのだよ」
　父親はしゃがんで言った。
　その時、教授を後ろに従えて刻人が現れた。女の子に笑顔を向ける。
「遅れてごめんね」
「これはどういうことよ」
　声を荒げた母親が教授を睨み付けた。問題を解かれましたので、と相手は言い難そうに返した。
「そんなはずがないでしょ。あれは大学で教える問題を」
「もういい。そこまでにしろ」
　父親の叱責に近い声に母親は口を閉じた。紅潮した頬が微かに震えている。
「妹が待っていますよ。『家族愛に溢れた』ミュージカル、僕も楽しみです」
　強調した言葉に父親の片方の眉が跳ね上がる。
　ミュージカルー、と浮かれた女の子の声に救われ、家族は揃って家を出た。

　薄暗くなった外と対照的に店は明るかった。刻人は窓際を選んで女の子と向かい合って座った。
「なんでパパとママは帰っちゃったのかなぁ。ファミレスが嫌いなのかなぁ」
「僕がいるからだよ」
　刻人は何気なく声に出した。ありえない、と女の子は笑って答えた。そうだね、と刻人は言って話題を変える。
「今日のミュージカルは楽しかった？」
「楽しかったよ。歌ってた女の人、きれいだったよね。わたしもなりたいかも」
「大丈夫。絶対にスターに、輝く星になれるよ」
「ホントに。だったらうれしいなぁ」
　女の子は頬っぺたに掌を当てて上体をくねらせる。
　その姿を見て思い付いたのか。刻人は目を輝かせた。
「スターには芸名がいるよね。ノジカなんて、どう？」
「それ、わたしも考えたことあるよ。シカってかわいいもんね」
「やっぱり兄妹だね」
　幼い二人はデートのような甘い時間を過ごした。

　満足した顔で刻人は白い空間に戻ってきた。待ち構えていた相手に声を掛ける。
「久しぶりに弘明寺刻人になれました。ありがとうございました」
　それは心からの感謝の言葉であった。

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