あなたの望む過去｜リアクション

あなたの望む過去

　銀色のストレートの髪が突風を受けたように一瞬で乱れた。身軽なパンツルックの氷華・クルバトフは歩いていた足を不意に止めたのだ。
「こんなところに本屋なんてあったのか？」
　横手の店舗に青い瞳を向ける。品揃えが気になるのか。停滞の時間は短く、自動ドアに導かれるかのように中に入っていった。
「なんだ、ここは？　まるでロシアの雪原ではないか」
「その点はご心配なく。訪れるお客様に合わせて適温を心掛けています」
　氷華の凛々しい目を受けたタキシードの人物は、いらっしゃいませ、と白い空間で恭しく迎えた。
「その態度は悪くない。しかし、外と中が違い過ぎる」
「簡単に説明を致しますと、当館はお客様が選ばれなかった過去を体験していただくサービスをご提供しております」
「過去を体験？　意味がわからない。時間を遡る技術でもあるのか」
「では、体験をもって説明とさせていただきます」

「まだ話は終わって――」
　氷華は言葉を切った。相手は消失して白い壁になっていた。
「大事な話がある。そこに座りなさい、氷華」
「え、父さん？　なんで居間に」
　氷華は用意されたソファに座った。向き合った父親の顔の厳しさに、まさか、と心の声が漏れた。
「大学受験の最中にいうことではないのかもしれない」
　氷華の表情が強張った。父親よりも先に言葉が出た。
「おばあちゃんの命が長くないって話だよね」
「話が早くて助かる。ロシアに行くのか。受験の為に日本に残るのか。どちらかを選んで欲しい」
「今回は、ううん、なんでもない。ここに残ってもいいかな？」
　父親は意外というような顔をした。
「氷華の気持ちは理解した。受験に向けて頑張れ」
「お父さん、ありがとう」
　父親は黙って頷いた。

　氷華は昼夜を問わず、受験勉強に励んだ。日々、積み上げた問題集と向き合った。
　今日も夜が更けた。問題を解くペンの音が、やけに大きく聞こえる。机のスタンドの明かりに照らされた氷華の顔はとても白かった。
　集中が途切れた。氷華は携帯電話を手にした。
「……おばあちゃん」
　机に上体を預けた姿で携帯電話の画面に虚ろな目を向ける。
　綿毛のような髪の祖母が白い歯を見せて笑っていた。
　庭の手入れをしている祖母が画面の向こうではにかむ。
　祖母が目を細めて微笑む。小さな自分が頬を押し付けて笑っている。
「サクランボみたい」
　笑顔と笑顔で結ばれたサクランボ。画面を通して優しさが溢れ出る。
「おばあちゃん」
　氷華は携帯の画面に頬を押し付けた。今でもサクランボだよ、と掠れた声で言った。

　氷華は白い息を吐きながら大学の構内を歩いた。
　正面に合格発表の掲示板が見えてきた。氷華は走り出した。人混みに顔から突っ込んで自分の受験番号を探す。
「……あった、私の番号があった」
　その時、ポケットの中の携帯電話が震えた。取り出すと画面には父親の名前が表示されていた。
「父さん、やったよ。大学に受かったよ」
　良かったな、と父親の沈んだ声が返ってきた。瞬く間に氷華の表情が曇る。
「もしかして、おばあちゃんが」
　その先の言葉は必要なかった。父親が重い口調で引き継いだ。
　氷華は空を見上げた。白い雲の塊は祖母の柔らかい髪に似ている。
「私が頑張れたのは、おばあちゃんが、いたからなのに」
　氷華は口にした。涙を拭う気にもなれないのか。首筋まで濡れていた。

　周囲の白さに気付いた氷華は近くにいた相手に深々と頭を下げた。その間に急いで目元を拭う。
「私の現実での選択は間違っていませんでした。ありがとうございました」
「その気持ちは故人にも伝わっていると思います」
　何気ない言葉が胸に響くこともある。
　氷華は顔を上げられず、頻りに目元を擦っていた。