あなたの望む過去｜リアクション

あなたの望む過去

　無限に思える空間で黒と白の二人が相対する。
　黒い背広を着た鉄衛守は鋭い目で相手を凝視した。
　白いタキシードの人物は微笑で受け止める。
「お客様、過去はお決まりでしょうか」
「事実確認が先だ。何者だ？」
「当館の案内役で名前をノアと言います」
　衛守は眼球を動かすことなく、ノアを見ていた。
「性別は疎か、年齢を見極めることも出来ない。口調に困るのだが」
「お客様の自由になさってください」
　衛守は遠慮のない視線をノアに向けて、ふと力を抜いた。
「そうさせて貰う。本題に入る前に俺の過去に少し触れておこう」
「よろしければ、当館の方で過去の再現を致しますが」
「結構だ。大した過去ではない。俺は十二年前に事件で両親を失った。路頭に迷った妹と俺は田舎の建設会社の社長に拾われた。裏で非合法組織と繋がりがあった。俺は若くして汚い仕事を任された」
　衛守の冷徹な目に微かな揺らぎが表れた。
「今から四年前のことだ。社長の一人娘に婚約の話が持ち上がった。社長の意向だが、中学生のお嬢様は拒絶された。そして俺に助けを求めてきた。冷静さを失っている状態では説得も難しい。俺は形だけのつもりで一緒に逃げる道を選んだ」
　衛守は右の首筋の傷に手を当てた。
「その日は酷い雨で俺は雷に打たれた。逃避行は失敗に終わり、俺は社長から相応の罰を受けた。今はお嬢様に気付かれないように警護する機械に成り果てた」
　衛守は抑えた表情で右の拳を握る。
「あの日の俺の選択は正しかったのか。お嬢様の手を取らなければ、俺は機械にならなくて済んだのか」
「お客様、確かめる方法がございます」
　ノアの力強い言葉に、頼む、と衛守は言った。

　一つの案件を解決した衛守が屋敷の廊下を歩いていた。そこに一人の少女が走り寄ってきた。
「クロガネ、私の部屋に来て」
　少女の泣き腫らしたような目に衛守は黙って言葉を受け入れた。手を引かれるようにして部屋に連れていかれた。
　扉を閉めると、少女は衛守の胸に抱き付いてきた。小さな身体の震えが、只事ではないことを伝えている。
「クロガネ、何も聞かないで私を連れて逃げて！」
　衛守は少女の肩に優しく手を乗せた。身体の震えは止まり、明るい笑顔が零れる。
「それは出来ません」
　静かに引き剥がされた少女は虚ろな目で、そう、と呟いて項垂れた。
「私は用事がありますので、これで失礼します」
　今にも膝から崩れ落ちそうな少女を残し、衛守は部屋を出た。
　玄関の方向に歩き始めた直後、激しい泣き声が耳に届いた。全ての感情を吐き出す声に、すみません、と衛守は震える唇で詫びた。

　早朝にもかかわらず、電車の時間を気にしたサラリーマンで通りは混雑していた。
　その中に衛守も含まれていた。時計を気にする素振りで、瞬間の視線を向かいの歩道に飛ばす。
　制服姿の少女が一人で歩いていた。無表情の仮面を被り、生気のない目は朝日さえも拒んで暗く沈んでいる。
　少女を追い抜こうとしたサラリーマンの一人と肩が当たった。
　衛守の足が不自然に止まる。
　弾かれた少女は近くの店の壁に横向きでぶつかった。そのまま、もたれたような姿でいた。
　あの日、全ての感情を涙で押し流してしまったのだろうか。無表情が素顔になった少女は数十秒の停滞を惰性で脱して、のろのろと歩き出す。
「……お嬢様、それでは俺と同じでは、ないですか」
　衛守の苦しげな声は届かない。少女は一切の感情を捨てた機械に成り果てていた。

　衛守はひっそりと館を後にした。
「機械は俺だけで十分だ」
　――その言葉をノアに残して。